胡蝶の夢

辺りには何も無い、真っ白な場所で女の子が泣いてた。何を泣いてるんだろ う。そう思うと、その子はゆっくりと振り向いた。その子は、私だった。昔の 私。そういえば、小さい頃よく一人で泣いてたっけ。 「わかば」 　これって、夢なのかな。どうして、こんな夢を見てるんだろう。 「わかばってば」 　誰かが私を呼んでる。誰？ 「国枝！」 　その声で、私は我に返った。そして、辺りをきょろきょろと見回す。そこは、 見慣れた学校の教室だった。 「あれ？」 　きょとんとしている私に対して、みんなの視線が集まってる。 「授業中に、呆けてるんじゃないぞ国枝〜」 　ふと見ると、先生が顔を引きつらせてそう言っていた。 「前に出てこの問題やってみろ」 　しまった、授業中だったんだっけ。私は仕方なく、前に出て黒板に書かれた 問題を解こうとしたけど、聞いてなかったんだから判るはずなかった。 　結局、その場で大恥をかいた形になって、その授業は終わった。 「わかば、どうしたの？」 　授業が終わると、すぐ後ろの子そう言ってきた。 「何でもない。ちょっと夢見ちゃっただけだよ」 「もう、大丈夫？　昨日ちゃんと寝たの？」 「大丈夫、大丈夫。気にしないで。それより次の授業、教室移動だよ。早く行 こ」 　そう言って私は教科書とノートを手に取り、その子と一緒に次の授業のある 教室へと行った。

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学校が終わると、私は真っ先に家に帰った。着替えて、宿題をして、ご飯を 食べて、ＴＶを見て、お風呂に入って、そして一日を終える。毎日、当たり前 のように繰り返されること。でも、今日は違っていた。だって、あの人に会え そうな気がしたから。 　私は部屋に戻ると、灯りを消してベッドに潜り込んだ。気が高ぶっているせ いか、中々寝付けなかったけど、気がつかないうちに深い眠りへと落ちていっ た。 　そして、その眠りの中で私はふいに目覚める。辺り一面が真っ白で、何も無 い場所。距離感も、時間の概念もまるで感じさせない不思議な空間。 「淳（じゅん）〜、いるぅ〜？」 　私はまるで遙か彼方の森に住んでいる小鳥に呼びかけるように、甘えた声で そう言った。すると、背後から突然手が伸びてきて私の体を抱きしめる。 「いるよ、ここにね」 　抱きしめたまま耳元でそんな言葉を囁かれたので、私の体から一気に力が抜 けていき、顔が熱くなるのが判った。 「もう、変な登場の仕方しないでよぉ〜」 　私が恥じらいながらそう言うと、淳はそのまま私の首筋にそっとキスをした。 唇が触れている箇所から手や足に痺れる感覚が走り、私は抵抗すら出来なくな っていく。しばらくすると、その感覚に身を任せていた私の思考は徐々に失わ れ始めたのでまずいと思い、私はちょっと強引に振り向いて淳の首に腕を回し た。でも、背の高い淳は意地悪するように背筋を伸ばしたので、私は首に捕ま ったままぶらさがることになった。 「やだぁ〜、ちょっとぉ〜、意地悪しないでぇ〜」 　私は宙に浮いている両足をジタバタさせたけど、淳は笑みを浮かべたまま私 の顔を見つめたままだった。 「こら、いつまで遊んでるんだよ」 　ふいに彼がそう言ったので、私は上目遣いに顔を見つめて舌をぺろっと出す。 「へへぇ〜。だって、久しぶりなんだもん。ちょっとくらい甘えさせてよぉ〜」 　彼は私の言葉を聞き入れてくれたようで、ぶら下がっている私の体をしっか り抱きしめて自分の目線まで持ち上げた。目と目が合い、私の心をたとえよう もない思いが溢れ始める。 「淳……」 　そう呟いて、私がそっと彼にキスをしようとした時だった。 「わかば、ちょっと太ったんじゃないか？」 　いきなりそんな失礼なことを言ってきたので、私は気分を害して頬を膨らま せる。 「ひっどーい、何それぇ〜。私、太ってないもん。それに、今この場所で私の 体重が判るわけないじゃない」 　そう、ここは私と彼だけの夢の世界。夢だから、重さとかも判るはず無いの。 「そうかな、何だか前より重く感じたぞ？」 「何それぇ〜。もう、むかついた」 　私はそう言って、両手でポカポカと淳の顔とか肩とかを叩く。 「お、おい、こら。やめろ。ごめん、悪かったって」 　でも私はやめない。むしろ悪のりしてそのままポカポカと叩き続ける。 「きゃははははは」 　そんな奇声を発して叩き続けていると、そのうち耐えきれなくなったのか、 淳は私の体を離しました。私の体は、ふわぁ〜っとした感じで下に落ちていき、 地面と思える感じの上でポンっと跳ねた。 「いった〜い。もう、何するのぉ〜」 「馬鹿、痛いはずないだろ」 　そう言って、私の顔を覗き込む淳。私達はお互いに見つめ合うと、クスクス と笑いあう。そのあと淳は地面に座り、私を抱き寄せた。 「何ヶ月ぶりだ？」 「んーと、確か三ヶ月かな？」 「へえ、そんなに経ってたのか」 「うん。私寂しかったよ、淳に会えなくて」 　これは、私の本音。淳は私にとって特別な存在だから。 「たった三ヶ月じゃないか」 「だって、昔は毎日のように会えてたじゃない」 　その時、私の脳裏に淳と出会った頃のことが思い浮かぶ。何もない、この場 所で一人泣いていた私に、そっと話しかけてくれる人が現れたあの日のことを。 「ちゃんと言っただろ。俺だって大変なんだよ」 「神魔……だから？」 「ああ。夜は活動の時間だからな」 「人、食べてたの？」 　そう彼は神魔。だから、生きていくために人の命を奪うという。 「そういうことになるかな」 「……そう」 　私はちょっと悲しい気持ちになった。生きていくためには仕方のないことと はいえ、人の命を奪うということが、私には悲しかった。 「そのうち私に会いに来て、私も食べられちゃうのかな？」 　ふいにそんな言葉が口からもれる。すると淳は私の耳元でそっと囁きかけて きた。 「わかばは、食べないよ」 「私は、淳になら食べられてもいいんだけどな」 　そう言って私は淳の体に覆い被さるようにして押し倒した。 「食べちゃうぞぉ〜、がお〜」 「馬鹿、お前は食えないだろ」 「もう、馬鹿馬鹿言わないでよ」 　私がクスクス笑うと、淳も同じように笑います。そして、私達はしばらく二 人で横になったまま、お互いの存在を感じあっていた。 「ねえ、そういえばさぁ、私に会いに来てくれるって話はどうなったの？」 　以前、彼とした約束。現実の世界で会ってみたいという、私のわがまま。 「一応、言われた通り向かってはいるんだけどなぁ」 「もう、早く来てよ。じゃないと私、おばあちゃんになっちゃうよ」 「はは、婆様になったわかばも見てみたい気がするなぁ」 「もう、意地悪」 　私がちょっと拗ねてると、淳は私の体を抱き寄せてキスをした。触れるだけ の、柔らかいキス。私は目を閉じて、触れあう唇の感覚に身を委ねていた。

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目が覚めて時計を見ると、いつも起きる時間だった。いいとこで目が覚めち ゃったと思いながらも、久しぶりに彼に会えたので私は満足していた。 　目覚めはすごく良かったのでそのまま鼻歌を歌いながら着替えたり、洗面を 終わらせたりして学校に行く。いつもの通学路も、機嫌がいいとこうも気持ち いいものなのかと思いながら歩いていった。 「おはよー」 　教室に入り元気にそう挨拶すると、みんなも元気に「おはよー」と答えた。 私は自分の席に座って、鞄を机の上に置きました。その時、ふと視線を感じた ので振り向いてみると、少し離れた場所に座っている娘と目があいました。 　あの子は確か、山野さん。髪の毛を丸く結い上げて、赤いリボンをしている、 何処か不思議なクラスメート。一ヶ月前くらいに来た転校生だけど、ちょっと 休みがちなので余り話とかしたことがなかった。 「おはよー」 　私が笑顔でそう言うと、彼女も笑顔で「おはよう」と答えてくれた。 「何か良いことでもあった？」 　突然の質問に私はきょとんとした。だって、この子と会話らしい会話をした のは、きっとこれが初めてだったから。 「うん！　ちょっとね！」 　私は、にこにこと笑顔を浮かべて元気にそう答えた。それと同時に他のクラ スメート達が教室に入ってくる。 「わかば、朝から随分元気じゃない」 　みんな私の顔を見るごとに同じことを言うので、きっと元気さが顔に出てる んだと思った。でも、それはそうだよね。昨日、彼に会えたんだから顔も綻ぶ はずだよ。 　私はそのあと、来る人来る人、全てに挨拶をした。そのせいか、教室の中で かなり浮いていたと思う。朝の挨拶をするときも、一人大きな声を出したので 先生から不思議がられたくらいだから。 　でも、このテンションが続くのも授業が始まるまでだった。さすがに授業中 までそれを続けると勉強にならないばかりか、教室の外に放り出されれかねな いので次第にテンションも下がっていく。もっとも、休み時間にはまた復活す るので、私の周りはとにかくうるさい状態だった。 　結局、このテンションは一日中続き、下校時間くらいには周りのみんなも呆 れていたようだった。でも、そんなことは気にしない。とにかく私は、一日楽 しく過ごせた。 　でも、帰りがけにちょっと気になることがあった。学校が終わり、教室から 出ていこうとして山野さんの横を通った時、ふいにその言葉が耳に届く。 「……の気配」 　私は相変わらずのテンションだったのですぐには気がつかなかったけど、し ばらくしてその言葉が何故か凄く気になった。 　でも、そんなことを深く考えることはしない私は、すぐに忘れて家に帰った。 今日も、彼と会えることを楽しみにしていたから。

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夜の闇に包まれた住宅街の、とある家の屋根の上に二つの人影があった。一 人は白い着物に身を包み、赤い帯をしている少女。もう一人は、黒いマントに 身を包み、顔を白い仮面で隠した長身の人物だった。 「どうして急に、神魔の気配が強くなったのかな？」 　独り言のように呟いた少女の言葉。その言葉に応えるように、仮面の人物が 答える。 「神魔が、彼女に接触したのでしょうか？」 　しかし、少女は何も答えず、ただ目の前にある家の二階の窓を見つめたまま だった。

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あれから、一月程経った。結局、あの日以来、私は夢の中であの人と会うこ とはなかった。一時期、舞い上がっていた私のテンションも今ではすっかり下 降しきってしまい、今ではごく普通、ただ明るいだけの女の子になっていた。 　特に変わらない日常。いつものように学校に行って、友達と喋って、勉強を して、帰ってくる。まるで変化のない一日。それでも寝る前になると、彼と会 えるんじゃないかと思い、期待している自分がいた。でも、その期待はまるで 応えられることはなかった。 「おはよー」 　その日も、私はいつものように学校に行った。すでに、あの時のようなテン ションは無い。 「おはよう」 　教室に来て、一番初めにそう答えてくれるのが山野さんだった。今は、「美 夕」と名前で呼んでいる。この一月で私と彼女は、お互いを名前で呼び合う間 柄になっていた。 　彼女は大人しく、どこか不思議な雰囲気を持った子だったけど、凄く聞き上 手な面があるので私が色々なことを言って聞かせることが多かった。 　他愛もない、つまらない話が多かっただろうけど、美夕はその一つ一つを真 剣に聞いてくれたので、私は凄く安心出来た。彼と会えないことも、美夕がい たから気を紛らわせることが出来たと思ってる。いつのまにか私は、美夕には 何でも話すようになっていた。そして、ある日、彼のことを話した。 「昔からね、夢に出てくる人がいるんだ。その人のこと、私は好きだし、彼も 私のことを好きなの。でも、数ヶ月に一度しか会えないの。だって、私達が会 える場所って、夢の中だけだから」 　実は、この話をするのは美夕が初めてじゃなかった。今までも、気心の知れ た子には、話して聞かせたことがある。でも、誰一人この話を信じてくれなか った。 「夢で会う恋人って、ロマンチックだね」 　美夕は、微笑みを浮かべた真剣な表情でそう言った。 「信じてくれるの？」 　今まで信じてくれない人が殆どだったので、私は半信半疑でそう聞き返した。 すると、美夕は微笑みを浮かべたまま軽く頷く。それを見た私は、思わず美夕 に抱きついていた。 「ありがと〜、美夕ぅ〜」 　突然の行動に、美夕はびっくりしていたみたい。しかも、教室の中だったの で、周りにいたクラスメートもびっくりしてた。 　そんなこともあってか、私はますます美夕が好きになった。何をするのも美 夕と一緒。時々、学校帰りに寄り道をするときも、美夕を誘ったりした。 　そんなある日、学校が終わって家に帰る途中のことだった。この日は寄り道 もせず、真っ直ぐ帰るつもりで美夕と分かれたので、私は一人だった。いつも の通学路を、家に向けて歩いていく。すると、道端に一人の男性が立っている のが見えた。 　初めは何処にでもいる、待ち合わせでもしている人だと思い、気にもしなか った。だから、顔を見ずに通り過ぎようとしたのも当たり前のことかもしれな い。でも、私がその人の横を通り過ぎたとき、ふいに懐かしい何かを感じ取っ た。 　でも、私は足を止めず、そのまま歩き続ける。しばらく歩いた後、急に何か を思いついたようにはっとして振り向いた。それと同時に、その人が口を開く。 「会いに来たぞ、わかば」 　聞き覚えのある声。そして、見覚えのある顔。でも、それらは何処かおぼろ げで、はっきりとしない。でも、私はこの人を知ってる。 「……淳？」 　それは、無意識のうちに口から出た名前だった。でも彼は、返事もしないし 頷きもしない。ただ、笑みを浮かべているだけだった。 　私の記憶から徐々に淳の姿が浮かび上がり、それが目の前の彼と重なってい く。 「おい、どうした？」 　彼がそう言ったのが聞こえた。でも、私は身動き一つ出来ず、呆けたように 彼の姿を見つめたままだった。すると彼が心配そうな顔で駆け寄ってくる。 「どうしたんだよ。何で泣いてるんだ？」 　泣いてる？　私が？ 　私は指先を自分の目の端にそっと触れる。確かに、私は涙を流していた。 「あれ？　おかしいな？　何で？」 　自分で訳が判らず、そんなことを言っていると、私の体がふわりと宙に浮いた。 「何だ、やっぱり重いじゃないか」 　彼が私を抱き上げてそう言った瞬間、私の心にたとえようもない喜びが溢れ た。それと同時に、目からぽろぽろと涙が出てくる。 「私……そんなに……重くないもん」 　泣きながらも何とかそう言い終えた私は、そのまま彼の首に手を回して抱き ついた。 「会いに来てくれたんだ、淳」 　私はそのまま、その場で泣きわめいた。とにかく、嬉しくて嬉しくて、もう 何も考えられなくなったから。だから周りの視線が痛いくらい突き刺さって、 いたたまれなくなった淳が、私を抱き上げたままその場から走って移動したの も判らなかった。

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何も考えられない。何も考えたくない。今はただ、ずっとこうしていたい。 そう思いながら、私は公園のベンチで淳の胸に顔を埋めて抱きしめられていた。 　時々、淳が何かを言うんだけど、私はそれを聞き取ることが出来ない。とい うより、そんな言葉を聞くよりも、今はただこうして抱き合っていたかったか ら。 　夢の中で感じていた温もり。それが、今現実に、こうして感じることが出来 る。でも、私はそのうち妙な感覚を感じ始めた。 「これって、夢じゃないよね？」 　さっきまで泣いていたので、くぐもった声しかでなかったけど、私は顔を上 げてそう言った。すると、淳は困惑した表情で私を見つめる。 「いつもみたいに、目が覚めたら自分の部屋で、そこには誰もいなくて、ただ 私がいるだけなんてことないよね？」 「大丈夫だよ」 　淳がそう言ったけど、私は不安に駆られて淳の胸に顔を埋めた。だって、そ んな言葉信じられなかったから。いつか夢から覚めて、また淳と夢の中で出会 うのを心待ちにする日々が来るみたいに感じたから。 　結局、このまま時間だけが過ぎていった。夜遅くなってくると、私は家に帰 らなければいけない。名残惜しい気持ちでいっぱいの私の気持ちを察してなの か、淳は私の家まで送ってくれた。 「ねえ、今晩、夢の中で会えない？」 　まだ別れたくはなかった。このまま二人で何処かに行ってしまえたら、どれ だけ嬉しいだろう。でも、今の私は何一つ力を持っていないただの子供だから どうすることも出来なかった。だから、せめて夢の中だけでも会いたかった。 「ああ。後でまた会おう」 　淳が優しい笑顔でそう言ってくれたから、私は精一杯の笑顔で「うん」と応 えて、自分の家に入った。すぐにでもベッドの中で寝てしまいたいと思いなが ら。 　でも、その日の夜。淳は夢の中に現れなかった。私は、何もない空間の中で ただ、淳の言葉を信じて待ち続けることしか出来なかった。

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「おはよう」 　朝、学校への通学路を歩いていると、私は後ろから声をかけられた。振り向 いてみると、そこには清々しい笑顔を浮かべた美夕がたたずんでいた。でも、 今の私には美夕と同じような笑顔で応える気力もなかった。淳が夢の中に現れ なかったことで、すっかり気が滅入ってたから。 「おはよ」 　とりあえず返事をして、私と美夕は二人並んで学校へと歩いていった。 「夢の中の彼に会えた？」 　美夕が、ふいにそんなことを聞いてきたので、私はとりあえず、軽く頭を振 る。すると美夕は「でしょうね」という言葉を呟いた。ちょっと気になったけ ど、きっと今の私の態度を見て察したんだろうなと思い、軽く聞き流していた。 　結局、教室に入っても憂鬱さは抜けず友達と話すこともしなかったし、美夕 が時々話しかけてくれたけど、それも長い会話になることはなかった。 　授業になると、当然のことながら勉強に身が入らない。先生の話を聞かず、 ただうつむいたままでいると、やがて眠気が襲ってきて、私は夢の世界に入っ ていった。 　辺りに何もない、真っ白い場所。私は、そこに一人で立っている。周りには 誰もいないし、誰も来ない。ただ私という存在だけが、何もないその空間にぽ つんと影を落としている。何一つ考えられず、ただその空間で立ちつくし、来 ないと判っている誰かを待っているという感じだった。 　でも、しばらくして私の体を背後からそっと抱きしめてくれる人が現れた。 その瞬間、私は振り向きもせず、立ちつくしたまま涙を流していた。 「よかった、会えて」 「……ごめん」 　暖かい温もり。夢なのに、お互いの体温を感じ合うことが出来る。その温も りが、私の冷たくなっていた心を徐々に温めていく。 「監視者がいるんだ」 　耳元に囁くように淳がそう言ったけど、私は振り向かずにその言葉の意味を 考えていた。 「神魔を闇に帰すっていうあれ？」 　昔、ちょっとだけ淳が話したのを思い出した。自分たち神魔を闇へと帰す監 視者という存在がいるということを。 「で、どうするの？」 「この町を、出ていこうと思う」 　その瞬間、私の心に大きな穴が開いた気がした。だって、私にとって淳は本 当に大切な人だったから。 「せっかく会えたのに……」 　何年も前から私が唯一慕うことが出来た人。でも、夢でしか会うことの出来 なくて、夢からさめてしまえば、それは現実で無くなってしまう。だから、い つかこうして本当に出会える日を夢見てたのに。 「私を、連れて行ってくれることって出来ないのかな？」 　抱きしめている淳の腕から、ためらうような気配を感じ取ったけど、私はそ れを承知で話しを続けた。 「せっかく会えたのに、また別れるなんて辛すぎるよ」 　これが夢なら、今すぐにでも目覚めて欲しかった。今起きている出来事は全 て夢で、全てが現実ではないのだと。でも、これは夢だけど現実で、覚めるこ とのない出来事だということも知っていた。 「じゃあ、今晩会おう。わかばを連れて行くかどうかは、その時決めるから」 　私が「うん」と答えた瞬間、私の意識は夢の世界から引き離されていく。そ して、目の前にはいつもの教室光景が広がっていた。まだ授業中で、みんな真 面目に授業を受けている。辺りを一通り見回した時、美夕と視線が合い私に向 かって微笑んでくれたので、私も思わず微笑み返していた。

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夜。夕食を終えた私は、両親に気がつかれないように家を出た。とにかく、 少しでも早く彼に会いたかったから。でも、途中まで来て私は大変なことに気 がついた。 「何処へ行けばいいの？」 　独り言のようにそう呟いて、私は途方に暮れてしまった。会うって行ったに も関わらず、淳と何処で会うのかを聞かなかったから。 　私は、どうしていいか判らなかったけど、とりあえず思うがままに歩き始め た。駅前、商店街、公園。とにかく、思いつく限りの場所に行ってみた。でも、 淳の姿を見つけることは出来なかった。 　何処をどう彷徨ったのか、気がつくと私は自分の家の前にいた。そして、出 たときと同じように両親に気がつかれないように家の中に入り、自分の部屋の 中に戻るとベッドに横になった。 　ひょっとして、眠れば淳に会えるかもしれないと思ったけど、こういう時に 限ってまるで眠気が無い。むしろ気が焦っている分、目が冴える一方だった。 「淳……」 　次第に涙が溢れてきて、部屋の中の情景が歪んでいく。最後に会おうって言 ったのに、ひょっとしてこのまま会えなくなるんじゃないかと思うと、涙が止 まらなくなってきた。淳に会いたい。淳に会いたい。その思いだけで、頭の中 がいっぱいになってきて他には何も考えられなくなった。 　すると、しばらくして、私はある気配を感じてベッドから飛び起きた。 「淳？」 　私は窓を開けて家の外を見回した。でも、誰もいない。気のせいかとも思っ たけど、私は無意識のうちに、もう一度家を出て夜道を歩き始めていた。 　すると不思議なことに、今度は何のためらいもなく、まるで行き先が決まっ ているかのように右へ、左へと路地を抜けていき、やがて街中にある建設中の ビルの前まで来ていた。 　建設中と言っても殆ど出来上がっているそのビルは、一階部分が綺麗なガラ ス張りになっていて、すぐにでも利用出来るように見える。でも、誰もいない 大きなガラス張りの空間は、とても寂しく見えた。 　ふと、そんな寂しさに心が捕らえられた時、そのガラスの向こう側の闇に、 炎が揺らめいているのが見えた。何だろうと思って私が近づくと、暗闇の中に 人がたたずんでいるのが見える。すると、その人影のうちの一人が私に気がつ いて歩み寄ってきた。 　でも、その人影が月明かりに照らされた場所まで来たとき、私は思わずガラ スに駆け寄っていた。 「淳！」 　そこには苦しそうな表情を浮かべた淳がいた。私はその様子を見て必死にガ ラスを叩いたけど、私の力じゃどうすることも出来ない。すると淳は、傷つい た手をガラスに添えて、私の顔を覗き込むようにしてきた。私もガラス越しに だけど、淳の手の平に自分の手の平を重ね合わせるようにする。 　そして、私がガラスに額を付けると淳も同じように額を付けた。ガラス一枚 隔てた向こう側に、私の好きな人がいる。でも、私は向こう側に行くことが出 来ない。ほんの僅かな隔たりが、とてつもなく大きなものに感じられて、私は 悔しくて目に涙を浮かべた。 　その時、淳の唇が微かに動いた。私が、その動きを自分の唇で言葉に変える。 「さ・よ・な・ら」 　その途端、私の目から涙が溢れて、辺りが歪んで見えた。もう一度だけでい いから抱きしめてほしい。あの温もりを感じたい。でも、どうすることも出来 ない。私は無意識のうちに目を閉じて、唇をガラスに付けた。すると、彼もガ ラス越しに唇を重ねてきてくれたの判る。目を閉じていて見ることが出来ない し、唇には冷たいガラスの感触しか感じられないけど、淳の温もりが伝わって くるのが判った。 　どれくらい、そうしてたか判らない。実際には、ほんの数秒だけだと思うけ ど、私には何時間もそうしていたように感じられた。瞼の裏に、妙な影が映っ たのを感じて、私は目を開ける。すると、目の前には炎に包まれ、すでに原型 を失っていた淳がいた。 　私は悲鳴を上げようとしたけど、声は出ない。むしろ息をのんで、崩れてい く淳の姿を見つめ続け、徐々に崩れていくその姿と共に力無く地面に座り込ん でしまった。 　ガラスの向こう側で何が起こったのか。何で、私の目の前にいた淳が消えて しまったのか。私には何が起こったのか判らず、ただ淳が消えてしまった辺り を呆然と見つめたままでいた。 「わかば」 　後ろで私を呼ぶ声がした。どこかで聞いたことのある声。でも、振り返る気 力すらなかった私はそれが誰なのか判らなかったし、判ろうとも思わなかった。 後ろにいる誰かは、その他にも何かを言っているようだったけど、その言葉さ え私には届かない。 「彼に会いたい？」 　どれくらい経っただろうか。その言葉だけが、私の耳に届いたので軽く頷く と、その誰かが傍らに座り込んで、私の体を抱き寄せた。 　その時、初めてその人の姿を見たけど、その姿に見覚えがあったにも関わら ず、私は何一つ出来なかった。何故なら次の瞬間、私の首筋に冷たい何かが触 れた感触と共に、私の意識がなくなっていったからだった。

辺りには何も無い、真っ白な場所。そこに、私と淳がいる。私達は、お互い の温もりを肌で感じながら、ただ抱き合っているだけだった。 「ねえ、これって夢じゃないよね？」 　時折、そんな質問をしてみると、その度に淳は笑顔を浮かべて答えてくれる。 私は、その笑顔を見るたびに、嬉しくなって彼の胸に顔を埋める。そんなこと の繰り返しだった。 　でも、不思議だった。この夢は、何だか覚めない気がする。何でかは判らな いけど、とにかくそんな気がしていた。 「ひょっとして、これが現実なのかな？」 　夢と現実。どっちが夢で、どっちが現実なのか、私にはもう判らなくなって いた。でも、そんな私に彼は易しい笑顔で答えくれる。その笑顔を見ると、私 は何だかどうでもよくなった。 　ずっと昔から、私が好きだった人。いつも、この場所でしか会えなかった人。 今、こうして覚めない夢の中に居続けることだけで、私は幸せだった。 　 胡蝶の夢（完）

あとがき