空　蝉

日が沈み、辺りが闇に包まれはじめても、その部屋には明かりが灯ることは なかった。やがて、大きな窓から差し込む月の光が、部屋の中をごく僅かにだ が照らしだしていく。 　床には、うっすらと埃が降りそそいでいるのか、誰のものとも判らない足跡 がいくつも残っており、月の明かりによって、それらがよりいっそう際だつか のように浮かび上がる。やがて月の光が、誰一人として動く者のいないこの部 屋の中程まで差し込んだとき、その月明かりの中に、車椅子に腰をかけた少女 の姿が浮かび上がった。 　その肌は、月の明かりに照らし出されているためか青白く見え、真っ直ぐに 伸びた長い髪は黒く輝き、虚ろに見開かれた瞳は胸に抱いている白い物を見つ めていた。 　そんな少女の様子を、部屋の片隅でそっと見守っていた隼斗（はやと）は、 意を決したようにその側に近づいていく。気品に溢れる端正な面もちが月明か りに照らし出されるが、その瞳には悲しみが含まれているかのようだった。 　やがて、車椅子の背後に立った隼斗は少し身を屈めると、少女を優しく包み 込むかのようにそっと腕を前に回し、その耳元に囁きかけた。 「行って参ります、美鈴（みすず）様」 　しかし少女はその言葉に答えるどころか身じろぎ一つせず、虚ろな目を見開 いたままだった。隼斗の心に、いつものような侘びしさが広がり、その思いを 堪え忍ぶかのように目を伏せると、両手に力を込めて少女の体を強く抱きしめ た。その姿は、一見泣いているかのように、月明かりの中に浮かび上がってい た。

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夜の街を見下ろせるビルの屋上のフェンスに、一人の少女が腰を掛けていた。 白装束に身を包み、赤い帯をしている。頭の上で丸く結い上げ、赤いリボンで 縛られている髪は、夜の風に弄ばれるかのように右に左にと揺れ動いていた。 「そろそろ現れるかな？」 　独り言のように呟いたその言葉と同時に、少女の背後に黒いマントで身を包 んだ人物が姿を現した。 「美夕。どうやら、動き始めたようです」 「私の庭で、何時までも勝手なことが出来ると思っているのかな？」 　そう言ったあと美夕が足下へと視線を移すと、ＯＬ風の女性が一人、公園の 中に入っていくのが見えた。ポンと、跳ねるようにフェンスから降りた美夕。 「行こう、ラヴァ」 　その美夕の表情には、これから楽しいことを始めるかのような薄笑いが浮か んでいる。やがて、クスクスという笑い声とともに、二人の姿は屋上から消え ていた。

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ふわふわと、宙に浮くような感覚が女性の心を包み込んでいた。今、この女 性は何一つ考えることは出来ず、呆然と立ちつくし、虚ろな目を見開いている。 　肩から下げていた鞄は、抜け落ちるかのように地面に落ち、その両腕は力無 く垂れ下がっていた。そして、その女性と向かい合うようにして、隼斗が佇ん でいる。 ――運が悪かったな。 　そう思うと、隼斗は腕を伸ばして女性の喉元に手をかけた。肌から感じられ る温もりが、隼斗の手の平に感じられる。 　この女性にとって、この公園はいつもの帰り道だった。仕事が終わり、少し でも早く帰れるようにこの公園を通っている。だが、それが自らの運命を決め てしまうなどとは思いもしなかっただろう。まもなく女性の体からは生気が奪 われ、冷たい躯となって地面に横たわることになる。 　だが、ここにきて隼斗は迷っていた。人の命を奪うのはいつものことなのに、 やはりその瞬間になると少し抵抗がある。命を奪われた人間が力無く崩れ去る 様を見るたびに、隼斗は後悔と罪悪感に苛まれていた。 　しかし、それと同時に隼斗の脳裏には美鈴の姿が浮かび上がった。虚ろな目 を開き、身動き一つしないで車椅子に腰をかけている姿が…… 「いつまで、そうしてるつもり？」 　突然、背後から聞こえた声に、隼斗は一瞬のうちに現実に戻された。驚きの 表情とともに振り向くと、そこには白装束に身を纏い、赤い帯をした少女が一 人、微笑みを浮かべながら佇んでいる。 「あなたね。ここのところ私の庭を荒らしていたのは」 　少女は微笑みを浮かべてはいるものの、威圧感を含んでいるかのような視線 を隼斗に向けている。その視線を受けた隼斗は、ゆっくりと腕を下ろし、まる で対抗するかのように少女をにらみ返した。すると先ほどまで虚ろな目で立ち つくしていた女性は、気が抜けたかのように地面へと崩れ落ちる。 「何者だ？」 「私は美夕、吸血姫美夕。はぐれた神魔を闇へと帰す、監視者」 　美夕がそう名乗った後、隼斗に再び驚きの表情が戻った。その目の前で、美 夕は手の平を上に向ける。すると揺らめくようにして赤い炎が姿を現し、美夕 の顔を赤く染めた。 ――しまった！　まさかこんな所で…… 　その思うと、隼斗は美夕から逃げるかのように背を向ける。だが、振り向い た先には白い仮面に黒いマントを羽織った男が、行く手を阻むかのように佇ん でいた。 「もう、逃げられないよ」 　だが、その言葉を聞いても、隼斗はなんとかその場から逃げようと、考えを 巡らせていた。 「はぐれ神魔よ、闇へ！」 　隼斗の背後で美夕がそう言うと同時に、炎が飛び去った。しかし、その様子 を察した隼斗は腕を横に伸ばす。すると腕の中に一本の槍が姿を現し、振り向 きざまに美夕の放った炎へとその切っ先を振り下ろした。そして、その槍が美 夕の炎を粉砕すると、脱兎のごとくその場から走り始めた。 　その動きを見てラヴァは隼斗の進路に立ちふさがり、鋭い爪を振り下ろすが、 隼斗はその攻撃を槍で受け流したあと、目にも留まらぬ早さで何度も槍を突き だす。ラヴァが爪でその攻撃を受け止めると、辺りに金属が触れあうかのよう な乾いた音が鳴り響き、そして何度かの攻防の末に隼斗との間合いをとって再 び身構えた。 　その時、二人の目線が合うとラヴァは隼斗に対して不思議な親近感を感じ取 っていた。 「あなた、強そうね」 　いつの間にか隼斗の背後に、立ちふさがるかのようにして美夕が姿を現して そう言う。しかし、前後を監視者と、その仲間と思しき者に挟まれた隼斗にと って、そんな言葉など耳に入っていなかった。 　自分一人で太刀打ち出来るはずもなく、何とかこの場を切り抜けなければ。 そう思っていた隼人は、一か八かという思いで槍を頭の上で数回廻し、渾身の 力を込めて切っ先を地面に振り下ろした。 　すると、大音響とともに砂埃が立ち上り、辺りの視界を一瞬にして塞ぐ。更 にその際に生じた衝撃波が美夕とラヴァを襲ったため、二人は一瞬気を取られ てしまった。その瞬間を見透かしたかのように、砂埃の中を隼斗が走り抜ける。 「ラヴァ！」 　視界を塞がれた美夕は、必死になってラヴァを呼んだ。しかし、ラヴァもそ の時は思うように動くことが出来ず、それでも命に従うように隼斗の気配のみ を頼りにその後を追っていった。 　やがて砂埃が収まり辺りが平穏を取り戻すと、美夕は気が抜けたように一息 ついて、先ほどまで隼斗がいた場所に作り出された大きな穴を見つめていた。 しばらくすると、ラヴァが戻り美夕に語りかけた。 「申し訳ありません、逃げられました」 「うん、しょうがないね。次は絶対に逃がさないようにしないと。これだけの 力を持ってるやつを、野放しにしておくわけにはいかないしね」 　やがて、先ほどの大音響を聞きつけてか、複数の人の話し声が聞こえてきた。 「行こう、ラヴァ」 　その言葉と共に、美夕とラヴァは暗闇にとけ込むように消えていった。

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翌日。この街の中学校に潜り込んでいる美夕は、いつものように学校へ行っ た。通学路は活気に溢れ、何人もの生徒が元気に挨拶をしている。そんな生徒 達の会話からも、昨日の公園での出来事が話題になっているようだった。 「おはよう、美夕」 　そう言って美夕に一人の女性徒が話しかけた。美夕が振り向くと、同じクラ スの女性徒数人が晴れやかな表情を見せている。 「おはよう」 　笑顔でそう答えると、美夕もその女性徒達の群に加わり、話しながら通学路 を歩き始めた。 「ねぇ美夕。昨日公園で起きた事件しってる？」 「公園？」 「そう、公園の中で凄い音がしたから近くの人が見に行ったら、そこに凄い大 きな穴が空いてたんだって。しかも、その近くに女の人が倒れてたんだけど、 その人そこで何が起きたか全然覚えてないみたいだよ」 「ふ〜ん。そうなんだ……」 　全てを知っている美夕は、とりあえず素知らぬふりをするかのようにそう答 えた。 「でもさあ、一体何があったんだろうね。そんな大きな穴が空くなんて、何か の爆発か何かかな？」 　すると、その言葉を聞いた他の女性徒が、「隕石が落ちてきたんじゃない」 と、冗談混じりで言った途端、誰もが大きな声で笑い始めた。そして美夕も、 つられるように笑みを浮かべる。 　そんな微笑ましい会話の中にいた美夕だったが、しばらく歩いた時、道路の 反対側から何者かの気配を感じて立ち止まった。横目で肩越しに背後を見ると、 そこには美夕の姿を見つめている一人の男がいる。 ――あいつは…… 　その男は、あきらかに神魔。それも昨日、公園で逃がした神魔だった。 「美夕、どうしたの？」 　突然、立ち止まった美夕の姿に気付いた一人の女性徒が、美夕にそう叫んで いた。 「何でもない、すぐ行く」 　女性徒の方に振り向いて笑顔でそう言ったあと、美夕は背後の気配を探りな がら再び歩き始めた。何故、自分の前に再び姿を現したのか。そんなことを考 えてみたものの、その答えはすぐには出なかった。そんな時、美夕は傍らにラ ヴァの気配を感じた。 ――ラヴァ、お願い。 　美夕がそう思うとラヴァの気配が遠ざかり、それと同時に、背後で感じられ ていた神魔の気配も遠ざる。美夕がもう一度振り返ると、さきほどまでいた神 魔の姿は消え去っていた。

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日が落ち、夜の闇に包み込まれる公園の中で、美夕は大きな木の枝に腰を下 ろしていた。その側にはラヴァも佇んでいる。しかし、二人の間に流れる空気 は、いつものそれとはやや違い、何処となくぎこちなかった。 ――どうしたの、ラヴァ？ 　美夕はそう思いながら、時折振り返ってラヴァの顔を見つめるが、仮面の奥 に隠されたその表情は伺い知ることが出来なかった。 　朝、美夕の命によってあの神魔を追っていったラヴァ。しかし、戻ってきた ラヴァは多くを語らず、ただ神魔からの伝言を伝えただけだった。あの神魔の ことを質問しても、曖昧な返事を繰り返すその態度に、美夕は何か釈然としな い思いを募らせていたのである。 　しばらくすると、一人の人影が美夕の目に入った。辺りが暗いためよくは見 えないが、片手に槍を握っているその姿は、一目であの神魔だと見て取れる。 美夕が木の枝から降りると、それに従うようにラヴァも続き、その神魔と対峙 した。 「不躾な呼び出しに応じて頂いて、ありがとうございます」 　二人の前に現れた隼斗がそう告げたあと、美夕もそれに答える。 「昨日は逃げたのに、今日はわざわざそっちから近づいてくるなんて、どうい う風の吹き回し？」 　しかし、隼斗は何も応えず、片手に握っていた槍をくるりと廻すと、その切 っ先を美夕へと向けて身構えた。 「名前、聞いておこうか」 　その美夕の問いかけに「隼斗」と呟いた瞬間、槍の切っ先は美夕に向かって 突きだされていた。しかし、その攻撃はラヴァが爪ではじき返し、美夕は身動 き一つせずに、その様子を見つめていた。 　そして、美夕がラヴァの前に進み出ようとしたとき、その動きを制するかの ようにラヴァが片手を美夕の前に伸ばした。 「美夕、この戦い、私に任せて頂けないでしょうか？」 　そのラヴァの言葉に、美夕は眉をひそめた。 「ラヴァ、どうしたの？」 「……おねがいします」 　有無も言わせないラヴァの言動に、美夕は眉をひそめた。今朝からの態度と いい、この神魔が原因であることは判っていたが、何がラヴァをそのような行 動に駆り立てているのかが美夕には判らなかった。 「……判った」 　今ひとつ、納得のいかない思いを抱きつつも、美夕はそう答えて身を引いた。 そして、ラヴァの背後で両手を拡げると辺りの風景が一変し、赤と青の世界が 広がる。それは美夕が作り出した異空間。その異空間の中に美夕とラヴァ、隼 斗の三人だけが浮かび上がる。 「ありがとうございます、美夕」 　そう言ったあと、ラヴァは隼斗に向かって身構えた。その様子を見て、隼斗 も槍を構える。そして次の瞬間、二人の戦いの火蓋が切って落とされた。 　この閉じられた空間に、金属の触れあうような乾いた音が鳴り響く。しかし、 その戦い方はまったく対象的だった。隼斗は槍を手にしている分、ラヴァの爪 よりも間合いが広い。そのため、出来るだけ間合いを取って攻撃をしてくる。 一方、ラヴァは爪による攻撃である分、間合いは隼斗よりも狭い。しかし、素 手による攻撃は、その早さにおいてラヴァの方が遙かに勝っていた。勿論、そ の事は隼斗も承知しているようで、攻撃の合間の一瞬の隙をついてラヴァが隼 斗の懐に飛び込むと、身を翻すようにして再び間合いをとる。そんな二人の戦 いを、美夕は静かに見守っていた。 　だが、戦いが始まって少し経った時、美夕の心には安堵感が生まれていた。 ラヴァの攻撃が、少しずつ隼斗を追いつめ始めていたからである。隼斗はいつ しか防戦一方になり、肩で大きく息をしはじめた。 　そんな時だった。ラヴァが隼斗との間合いを大きくとったかと思うと、構え ていた腕を下ろしたのである。その行動が理解できず、隼斗は逆に警戒心を強 めてラヴァの動きを見つめた。 「……何を、そんなに気にかけている？」 　そのラヴァの言葉に隼斗は眉をひそめる。 「それほどの槍の腕を持ちながら、まるで気が入っていない。何をそんなに気 にかけている？」 　その瞬間、隼斗の顔が一瞬曇ったのを、美夕もラヴァも見逃してはいなかっ た。 「ラヴァ？」 　隼斗の態度を見て疑問に思った美夕はラヴァを呼んだ。しかし、その美夕の 問いかけにラヴァは答えず、ただ隼斗の姿を見つめていた。やがて、ラヴァは その顔を覆っている仮面をゆっくりと外し、まるで哀れむような視線を隼斗に 投げかける。 　隼斗は、そんなラヴァの姿を微動だにせず見つめ続けていた。両者の間に広 がる沈黙。しかし、暫くすると隼斗は槍の切っ先を下げた。 「あんた、西洋神魔だよな。何で、監視者の側にいるんだ？」 「私は、美夕の従者。美夕に従い、美夕と共にあるのが運命。お前も、全てを 話したらどうだ？」 　ラヴァがそう言ったあと、隼斗は笑みを浮かべた。そして、手に持っていた 槍を水平に持ち直すと、ラヴァへと投げてよこす。そして、美夕の側に近づく と、片膝をついて頭を下げた。 「数々の無礼、失礼いたしました」 　しかし、美夕にはまだ何がどうなっているのかが理解出来ず、ラヴァに視線 を移した。 「彼の話を聞きましょう」 　そのラヴァの言葉を、美夕は素直に聞き入れた。本来であれば、はぐれ神魔 の話など聞くはずもないのだが、いつもとは違うラヴァの言動と、臣下の礼を 尽くすかのように頭を下げる隼斗の姿に、疑問を抱かずにはいられなかった。 「全てをお話する前に、出来れば私の主に会って頂けないでしょうか？」 「主？　私を、あなた主に会わせて、どうしようっていうの？」 　美夕がそう聞き返したとき、隼斗は黙り込んでしまった。よく見ると、肩を 震わせている。やがて、呻くような声で隼斗が言い放った。 「主を……主を、闇に帰して頂きたい！」 　その声は、美夕の空間の中に静かに響きわたっていた。

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軋むような音と共に、部屋の扉が開いた。そして開いた扉を通って隼斗が部 屋に入る。そのすぐ後ろに佇んでいた美夕とラヴァのうち、先にラヴァが部屋 に入って中の様子を窺い、安全を確認した後、美夕が部屋の中に入った。 　特に何もない部屋だが、窓から差し込む月の光はとても明るく、その光の帯 に照らし出されるように隼斗と、車椅子に腰を掛けた少女がいた。 「私の主、美鈴様です」 　神妙な面もちでそう言った隼斗の言葉を受けて、美夕は美鈴の姿を見つめた。 まるで人間の少女のような面もち。月の明かりによって照らし出される青白い 肌と黒い髪。しかし、確かにその場にいるはずの美鈴からは不思議と生気が感 じられなかった。 　虚ろに見開かれ目。それは、まるで夢を見ているかのように美夕には感じら れた。 　やがて美夕は、美鈴が白い物を胸に抱いているのに気がつく。手鞠か何かか と思いつつも、何かいいようのない違和感を感じた美夕は、美鈴の側へと近づ く。だが次の瞬間、美夕は息を呑んだ。 ――これ、人の頭…… 　美夕は、暫く言葉が出なかった。美鈴が胸に抱いているのは、まぎれもない 人の頭蓋骨である。美夕が美鈴の表情を見ると、やすらかな表情を浮かべた美 鈴は、その骨と見つめ合うようにその視線を送り続けていた。 　ふと、美夕が隼斗に視線を移すと、隼斗は悲しみを含んだ表情で、美鈴を見 つめている。 「説明してくれない？」 　美夕のその言葉を受けて、隼斗はしばらく目を瞑った後、静かに語りはじめ た。 「遠い昔のことです。美鈴様は諸国を流浪するはぐれ神魔でした。人との関わ りを必要最低限に抑え、人を傷つけることなく、人の中に紛れれば監視者に見 つからずにすむ。それが、美鈴様の口癖で、それ故に人を傷つけることを極端 に嫌い、いつでも人と同じように振るまっていました。この私もそんな美鈴様 に従い、常に側にお仕えし、共に旅を続けておりました。しかし、人と同じよ うに生きていくということが、逆に不幸を呼び寄せたのです。ある村に立ち寄 った際に、美鈴様はある人間の男と恋に落ちてしまいました。神魔と人間の恋 なぞ、成り立つはずがありません。私は一言、美鈴様にご忠告申し上げようと しましたが、それは美鈴様が一番判っていることでした。出来るだけ早く、そ の村を後にする。美鈴様のその言葉を聞いて、私は安心したのですが、事態は 思わぬ方向に向かってしまったのです。何者かが、美鈴様は魔性の者であると いう噂を村に広めていました。正気を失った村人達が、美鈴様を襲うのはもは や時間の問題。そうなる前に我々はその村を抜け出ることにし、ある晩、夜隠 に紛れて村を出ようとしたのですが、その時を待っていたかの様に村人達は我 々に襲いかかりました。私は美鈴様を必死で守りましたが、そんな状況でも美 鈴様は人を傷つけてはいけないという思いを貫き通していたため、私もそれに 従わざるをえませんでした。それ故、私は美鈴様を守りきることが出来ず、美 鈴様も取り押さえられてしまいました。しかし、そんな時です。美鈴様の愛し た男が美鈴様を助けるため、村人の前に立ちはだかりましが、その言葉を聞き 入れるような連中ではありません。結局、魔物に魅入られた者として、その場 でその男は殺されてしまい、そして……そして、思い出すのもおぞましい、あ の惨劇が幕を開けました」

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その瞬間、美鈴には時が止まったかのように感じられた。差しのべようとした 腕に鮮血が降りかかり、所々に赤い染みのように広がる。 　何もすることが出来ない。ただ、目の前で殺された一人の人間の姿を、呆然 と見つめることしか美鈴には出来なかった。手に松明を持ち、周りを取り囲ん でいた男達が何かを言っているが、その声さえも美鈴には聞こえていなかった。 ――どうして…… 　その思いとともに、美鈴は絶叫とも言うべき叫び声をあげたつもりだった。 しかし、その声は辺りに響かない。美鈴の心の中では、悲しみにくれた叫び声 を上げる自分がいるのだが、実際に美鈴はただ呆然と目の前で倒れている人間 の姿を見ているだけだった。 　やがて、一人の男が鮮血を滴らせた刀を手にして、美鈴の側に近づいてくる。 「やめろ！　美鈴様に、それ以上手を出すな！」 　少し離れた場所で、二人の男に組み伏せるように取り押さえられている隼斗 がそう叫んでいた。しかし、その言葉を男達が聞く様子もない。 　このままでは美鈴が殺されてしまうと思った隼人は、全身に力を込めた。神 魔の隼斗からすれば、二人の人間の力などものの数ではない。しかし、その際 に人が傷つくかもしれないので、今まで黙って見ていたのである。だが、自分 の主が殺されそうになっているのを目の当たりにしては、そんなことも言って いられない。 　しかし、隼斗が体に力を込めた瞬間、空気を伝って何らかの衝撃がを突き抜 けたのを、その場にいる全ての者が感じ取った。すると、美鈴を取り囲んでい た男達の一人が、突然頭から血を流して倒れたのである。更に次の瞬間には、 他の男達も大きな血しぶきを上げて、バタバタと倒れていく。やがて地面に落 ちた松明が、倒れた男達の中央に佇んでいる美鈴の姿を浮かび上がらせた。 　全身に真っ赤な返り血を浴びているその姿は、松明の炎によってより赤く闇 の中に浮かび上がり、その様は魔性の者と見て取れてもおかしくないような雰 囲気を漂わせていた。その姿を見て、隼斗を取り押さえていた二人の男は悲鳴 を上げながら村の方へと逃げていく。解放された隼斗は、何よりも先に美鈴の 側に駆け寄った。 「美鈴様、お怪我は……」 　しかし、美鈴は何も答えない。ただ、俯いて足下に倒れている、かつては美 鈴のことを愛し、愛された一人の人間の躯を見つめていた。やがて俯いた美鈴 の瞳から、透明な雫がその男に降りかかる。だが、その雫はやがて美鈴の顔に 付着した返り血と混ざり合い、赤い雫となっていった。 「美鈴様？」 　隼斗は、もう一度美鈴の名前を呼んだ。すると、顔を上げて村の方にふらふ らと歩いていく。隼斗が歩を進める美鈴の正面に立ち、その両肩を掴んで呼び かけると、美鈴はゆっくりと顔を上げて隼斗を見つめた。 「み、美鈴様……」 　その視線を受けた隼斗は我が目を疑った。その時の美鈴は、隼斗の知ってい る美鈴と同一人物とは思えなかったからである。 　外見が変わったとか、そういう意味ではなく、美鈴の全身から感じられる力 みたいなものが、隼斗の知っている美鈴ではなかった。 　次の瞬間、美鈴の腕が水平に払われると、隼斗の体はまるで人形のように軽 く宙に浮き、道ばたの草むらの中まで飛ばされていた。そして、美鈴は小走り に村の方へと消えていく。 「おまちください、美鈴様！」 　隼斗もすぐに立ち上がり、美鈴の後を追おうとした。しかし、軽く払われた 程度かと思ったが、その衝撃はとてつもないものであり、真っ直ぐ歩くことが 出来ない程だった。 　しかし、放っておくわけにはいかず、おぼつかない足取りながらも、隼斗は 美鈴の後を追って村の方へと歩いていった。 　隼斗が村に着くと、そこはまさに絵に描いたような惨劇が繰り広げられてい た。いくつかある住居の前に、住人とおぼしき者が血塗れで倒れている。村の 中程まで行っても状況は同じで、その中には女子供も含まれていた。 ――これは、まさか……美鈴様が…… 　そう思ったとき、すぐ近くから悲鳴が聞こえた。隼斗が急いで駆けつけると、 一人の男が首に組み紐を巻き付けられ、ずるずると凄い力で家の中に引きずら れている所だった。やがて、その男が家中に消えると同時に、断末魔ともいう べき悲鳴が辺りに響きわたった。 ――今の組み紐は…… 　隼斗の脳裏に、美鈴の腰に巻かれていた組み紐のことが浮かんだ。その組み 紐は美鈴が愛用しているもので、特徴として先端に鈴がついているのである。 組み紐自体は暗くて見にくかったが男が引きずられていくとき、僅かに鈴の音 が聞こえていたのを隼斗は聞き漏らしてはいなかった。 　やがて隼斗の思惑通り家の中から美鈴が姿を現し、隣の住居へと走り始める。 その様子を見た隼斗は、美鈴の後を追いかけた。 「美鈴様！」 　しかし、美鈴は何も答えない。体を動かすたびに返り血が辺りに飛び散り、 片腕に握られている組み紐は真っ赤に染まっていた。 「美鈴様、お止めください、美鈴様！」 　そう言って、隼斗が美鈴の背後から肩に手を掛けた瞬間、美鈴が振り向いた。 その瞬間、隼斗は再び我が目を疑った。美鈴の表情が、まるで鬼女のように変 貌していたからである。 　隼斗は、美鈴の従者となって長い年月を共に過ごしてきた。外見は人間の少 女のように幼く見えるが、その優雅な物腰と気品に溢れる姿は、隼斗にとって も自慢の主だったのである。しかし、今の美鈴には、その片鱗すら見えない。 憎悪に満ちたその姿は、隼斗すらも萎縮させるほどだった。 　隼斗がそんな思いに捕らわれた時、美鈴は隼斗の腹部へ拳による強烈な一撃 を放った。すると隼斗の体は大きく飛ばされ、その先にあった家の壁に叩きつ けられた。 「美……鈴様」 　その時、隼斗は薄れゆく意識の中で、去っていく美鈴の姿を見つめていた。 やがて、誰のものとも知れぬ悲鳴を耳にしたのを最後に、隼斗は全ての意識を 失ったのである。 　どれくらい時が経っただろうか。隼斗は、顔に差し込む日の光で目を覚まし た。ゆっくり体を起こすと、腹部に激痛が走る。その痛みに耐えながら、隼斗 は自分の周りを見回した。 「……」 　言葉にならなかった。まさに惨劇である。道端に、広場にと村人の死体が横 たわり、女子供の区別なしに皆殺しにされていた。中には原型すらとどめてい ない死体すらあったほどである。家という家は皆入口が打ち壊され、中はまる で嵐が過ぎ去った後のように荒らされ、その中にも村人の死骸が転がっていた。 「……美鈴様」 　ようやく我に返った隼斗は痛みを堪えつつ、美鈴の姿を求めて村の中をさま よい歩いた。しかし、いくら探しても見つからない。美鈴を捜すことによって、 数多くの死体を目にしなければならなかったため、隼人自身もどうにかなって しまうかのような感覚に捕らわれ始めていた。それほど、その場の惨状は見る に耐えない状況だったのである。 　気が滅入りだした頃、隼斗は道に特徴のある血痕を見つけた。何か長い物を 引きずったような後が残っている。それが地面の小石などに点々とついていた のである。 ――これは…… 　その時、隼斗の脳裏に美鈴の組み紐のことが浮かんだ。そして、その血痕を 頼りに道を辿っていく。しばらく歩くと、その先に引きずられる途中に置き去 りにされたような形で、一本の組み紐が落ちていた。その先端には鈴が付いて いる。隼斗はその組み紐を手に取った。血を浴びたその組み紐は、軽く握った だけで滴って落ちるほど血を吸っていた。 「美鈴様！」 　隼斗は辺りに響くように大きな声で美鈴を呼んだが、その声に答える者は誰 もいなかった。しかし、何となくこの近くにいるということ感じていた隼斗は、 辺りに注意を払いながら再びその道を先に進んだ。 　やがて、昨夜村人に捕らえられた場所に来たとき、道の先に座り込んでいる 人影が目に入った。よく目を凝らして見ると、頭から血をかぶったかのように 所々が真っ赤にそまった美鈴だった。隼斗は急いで美鈴の側に駆け寄る。そし て、生きているその姿を目にして、ようやく胸を撫で下ろした。 「ご無事でしたか」 　だが、美鈴は何も答えず、昨夜村人に殺された思い人の亡骸を抱きしめてい るだけだった。 「美鈴様？」 　不審に思った隼人は、もう一度美鈴の名前を呼んだ。しかし、同じように美 鈴は何も答えなかった。 「美鈴様！？　美鈴様！」 　隼斗は美鈴の両腕を掴んで軽く揺すった。だが、それでも美鈴は何一つ反応 を示さない。まるで、魂が抜けてしまったかのように、ただ虚ろな目を見開い ているだけだった。

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美夕とラヴァは、隼斗の話を神妙な面もちで聞いていた。隼斗がそこまで話 し終え、黙り込んだときでも、暫くは口を開く気にもなれなかったのである。 「結局、美鈴様は村人数十人を一夜にして皆殺しにし、心を閉ざしてしまいま した。今は、ごらんの通り生ける屍のような状態です」 　その言葉と共に、美夕はもう一度美鈴の姿を見た。その体はとても華奢で、 数十人の人間を一夜で皆殺しにするほどの力を持つとは思えない。だが、同時 に隼斗の話しぶりから、その言葉に嘘は無いということを美夕は感じ取ってい た。 「聞いていいかな？」 　呟くような声で問いかけた美夕の姿を隼斗が見つめる。 「あなたは彼女の従者。そのあなたが、どうして主である彼女を闇に帰そうと 願うの？」 　すると隼斗は、美鈴の頬にそっと手を差しのべて静かに話し始めた。 「神魔といえど、生きていくには活力が必要です。吸血姫であるあなたが、人 の血を吸って活力を得ているように、我々もその活力を得なければいけません。 私も美鈴様も、人と同じように物を食べることによって活力を得るのですが、 ごらんの通り美鈴様はもう自分で活力を得ることが出来なくなってしまいまし た。放っておけば、確実に死んでしまうでしょう。そこで私は、自らの活力を 美鈴様にそそぎ込むことで、今までその命を支えてきたのです。しかし、それ ももう限界に近づいてきました。所詮、従者である私の力では、主の命を支え ることは出来なかったのです。美鈴様は日に日に衰えていき、最近は人の命を 奪ってそれを美鈴様に注いでいたのですが、もはやそれでも追いつかなくなり ました。人の命を奪えば、監視者に見つかる可能性が高くなる。そして、もし 私が闇に帰されてしまえば、美鈴様の命は……」 「でも、彼女を闇に帰した後、あなたはどうするつもりなの？」 　その美夕の言葉に、隼斗はやや俯いて答えた。 「出来ることなら、この世から消して頂きたい。どのような理由があるにしろ、 私の行いは主への裏切りです。ゆるされることではありません」 　そう言った隼斗の言葉を聞いて、美夕は神妙な面もちで何かを考えていた。 「一つだけ、気になることがあるの。ねぇ、どうして彼女が神魔であるってこ とが村人達に判ったのかな？　噂を流したのは誰？」 　だが、隼斗は何も答えなかった。その様子を見て、美夕は眉をひそめる。 「人と同じように振るまっているあなた達を、人が見分けるなんて難しいこと でしょう？　誰か知っている者が言わない限りは判らないじゃない。それに、 そんな噂を流しても、得する人間がいるとは思えないし……」 　隼斗の表情が一瞬曇ったように感じた美夕は更に話を続ける。 「例えば、彼女と彼女の愛した人間の仲を、快く思わない者がその噂を流した とか……」 「一体、何が言いたいのですか？」 　ごく僅かにだが、声を震わせながらそう言った隼斗の言葉を聞いて、美夕は ある確信を得た。 「あなたは……」 「美夕」 　美夕が隼斗に話しかけようとしたとき、それを遮るかのようにラヴァが割っ て入った。 「彼の願いを、聞きとどけて頂けないでしょうか？」 　美夕は、少し苛立っていた。この神魔に対するラヴァの言動が、あまりにも 不可解過ぎるからである。 「……ラヴァ、ここのところ変だね」 「申し訳有りません」 　素直にそう言ったラヴァの姿を見て、美夕は溜息をついた。そして、隼斗を 見つめる。 「判った。あなたの願いを聞いて上げる。ただし、あなたも一緒に闇に帰るな らね」 　その瞬間、隼斗は驚きの表情を浮かべた。 「いいよね、ラヴァ？」 「はい」 　ラヴァは、その美夕の言葉に依存がなかったが、隼斗はまるで納得がいかな いようだった。その様子を見て、美夕は話を続ける。 「あなたは彼女の従者。どんな理由があるにしても彼女の許しもなしに、勝手 にいなくなるなんて絶対に許されないのよ」 「し、しかし……」 「それに、もし彼女が元の彼女に戻った時、あなたが側にいなかったら、彼女 はまた悲しむことになるんじゃない？　彼女にとって心をゆるせるのは、もう あなただけなんだから」 　隼斗は、何も言えなかった。主を裏切るという罪を償うつもりで、自分自身 を消してしまおうと考えていたのだが、それは自分の勝手な憶測だったことを 思い知らされたからである。 　闇に帰された後、自分たちが再びこの世に戻れることは無いかも知れない。 しかし、何かしらの理由で闇から逃れ、美鈴が昔の美鈴に戻ったとき、もし側 に誰もいなかったら美鈴はどれだけ悲しむだろうか。それを思うと隼斗の心は 痛んだ。 「あなたのような方に出会えて、私は幸運でした」 　隼斗がそう言った後、部屋の中に沈黙が訪れる。やがて、隼斗は美鈴の体に そっと腕を廻した。その姿を見て、美夕が手の平を上に向けると、その手の平 の上に赤い炎が姿を現す。 「隼斗」 　突然、ラヴァが隼斗を呼びかけた。何かと思い顔を上げると、ラヴァは手に 持っていた槍を隼斗に投げてよこした。 「もし、もう一度会うことがあるなら、その時決着をつけよう」 　隼斗はそのラヴァの言葉に笑みを浮かべて、静かに頷いた。そして、目で合 図を送るように美夕を見つめる。その様子を見て、美夕がそっと手を前に差し 出すと、手の平の上で燃えさかっていた炎が、ゆっくりと美鈴と隼斗の二人を 包み込んでいった。 「ありがとうございます」 　最後にそう言ったあと、隼斗は炎の中で美鈴の体を抱きしめ、それと同時に 二人の姿は吸い込まれるように炎の中に消えていった。

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美夕は、夜の街を見下ろせるビルの屋上のフェンスに腰をかけていた。その 側にはラヴァが佇み、同じように夜景を見つめている。 「ラヴァ、どうしてあの神魔のことを、あんなに気にかけたの？」 　しかし、ラヴァはその問いかけに答えなかった。 「他人事とは、思えなかった？」 　暫く間をおいて、そう言った美夕の問いかけにも、ラヴァは平静を装ってい た。 「ねぇラヴァ。もし仮に、仮にね？　私があの美鈴っていう神魔みたいに心を 閉ざしたら、ラヴァはどうする？」 　その問いかけにラヴァはようやく反応を見せ、ゆっくりとフェンスの上の美 夕を見上げる。 「美夕。あまり、私を困らせないでください」 「だって……随分と私に逆らったじゃない」 　このとき美夕は、ラヴァがあの神魔に関して何故あんな行動をとったのか、 およその見当はついていた。実際にラヴァが美夕に逆らったという訳ではない が、今の美夕はあのラヴァの言動を許せる気分ではない。だから、少しだけ意 地悪く言っているだけだった。 　やがて美夕はラヴァの傍らに降り、見上げるようにしてラヴァの顔を見つめ た。 「ねぇ、答えて」 　そう言った美夕の顔は、ごく僅かにだが微笑んでいた。 「私は、いつまでも離れることなく美夕の側に……」 　中途半端な返答だった。そこまで言うと、ラヴァは再び黙り込んでしまった のだが、美夕は満足したように笑みを浮かべ、そっとラヴァに抱きつく。 「あの二人……私達に似てたかな？　でも、私達は眠ることも出来ないもんね」 　その美夕の言葉のあと、ラヴァは美夕の体をそっと抱きしめた。二人の姿は、 夜空に輝く月の光にいつまでも照らし出されていた。 　 空蝉（完）

あとがき