虚実の時

目の前に浮かび上がってくる光景。それは、四角く切り取られた白い部屋。 私は、その部屋の中で天井を見つめている。多分、ベッドか何かの上で横にな って見上げているんだと思うけど、どうして天井を見ているのか、何故私がそ こにいるのかは判らない。それに、辺りは夜なのか、部屋の中は暗闇で包まれ ていて、白いとかが判別出来るはずがないのに、私には何故かこの部屋が白い 部屋だと判った。 　体を動かそうとしてみる。でも、まるで手足がついていないみたいに感覚が ないし、目だけでも動かそうと思っても、その意思に反するみたいに目も動か ない。まるで、私の体が私のものでは無いみたいだった。 　でも、しばらくすると私は気が付く。これは夢なのだと。そう、時々見る夢 の一つだ。すると、目の前にあった光景が静かに消えていき、徐々に見慣れた 部屋の様子が目の前に広がってくる。それと同時に、私は私の感覚を取り戻し ていった。

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「またあの夢……」 　寝ぼけてうまく働かない頭の片隅で、今見た夢のことを考えてみる。でも、 時計を見たらそんなことはすぐに忘れてしまった。 「あ、もうこんな時間……」 　私はベッドから起き出して、一度大きく背伸びをした。そして、寝ぼけ眼を こすりながら部屋を出た。 　階段を下りて洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗うとようやく目がぱっちりし てくる。その次に歯を磨き、長い髪の毛を整える頃には頭の方もすっきりして いた。 　両手でぱんぱんと頬を叩き、いつものように「よし」と気合いを入れ、着替 えるために自分の部屋に戻る。そして、これもいつものように途中でパパが出 かけるところに出くわした。もちろん、すぐ側にはママがいてお見送り。 「いってらっしゃい、あなた」 「ああ、行ってくるよ」 　そして二人は、ちゅっとキスをする。仲の良い夫婦なんだけどねぇ、毎朝こ れをやるってのもちょっと。 「あら、よっちゃん、おはよう。朝ご飯食べるでしょ？」 　見てるこっちが恥ずかしくなるのに、ママは何事もなかったみたいに振り返 って、私をいつもの調子で呼んだ。それにしても、好美（よしみ）だからよっ ちゃんっていうのは、安直過ぎると思うけど。 　何てことを思っている間に、ママはさっさとキッチンへ行って私が食べる朝 食の準備を始めたみたいだった。私も階段を上って自分の部屋へ行き、制服に 着替えると忘れ物がないようにチェックしながら教科書を鞄に入れ、もう一度 階段を下りた。 　キッチンに行き、テーブルのいつも場所に座ると、ママがおかずを運んでき てくれる。 「パンにする？　それともごはん？」 「パンでいいよ」 　目の前に並べられてるおかずを食べながら待っていると、二、三分して綺麗 なきつね色に焼き上がった食パンが、香ばしい臭いを漂わせながら目の前に置 かれた。私はそれに、大好きなイチゴジャムをたっぷり塗って口に運ぶ。 　でも、その味を堪能している暇もなく、家のチャイムが鳴った。 「ほら、よっちゃん、篤士（あつし）君が来たわよ」 　言われなくても判ってるよぉ、って言いたいけど、口の中にパンがあって喋 れない。とりあえず、急いで飲み込むと、おかずを二、三個口に入れ、片手に パン、片手に鞄を持って玄関まで行った。 　もぐもぐと口を動かしながら、更にパンを口にうまく挟み込みながら靴を履 く。時々やってることだから、もう手慣れたものだった。 「おまたへ〜」 　玄関を開け、そんな間抜けな声で挨拶をすると、篤士は「今日もか」とでも 言いたいような呆れた表情を浮かべてた。 「ほら、早くいくぞ」 「うん」 　もぐもぐとパンを食べながらそう答えると、二人で並んで歩き始めた。 「しっかし、毎朝ながら、もう少し行儀良く出来ないのか？」 　少し歩いたところで、篤士がそう言った。 「だってぇ、しょうがないじゃない。今日は寝坊しちゃったんだもん」 「今日も、だろ？」 「う〜」 　ちょっと拗ねてみると、篤士は大きな手で私の頭をぽんぽんと叩いた。 「ほら、さっさといくぞ」 　篤士の手が私の頭に触れると、私はちょっとだけほっとする。今日も、この 手が私に触れてくれたから。 　篤士は私の幼なじみで、まだ物心着く前から一緒に育ってきた男の子。やさ しくて、ちょっと意地悪だけど、いつも側にいてくれる人。私は、そんな篤士 がずっと前から好きだった。 　でも、私達はまだ恋人同士ってわけじゃない。篤士は距離が近すぎることも あって私をそんな風に意識することがないみたいだから。 　幼なじみが恋人に、なんていう甘い幻想を抱いてるわけじゃない。本当は、 すぐにでも告白して恋人同士になりたいと思ってる。だけど、私には不思議と そんなことをしなくてもいいという余裕みたいなものがあった。それは、篤士 は私以外の人を好きにはならないという、ちょっとだけ生意気で自分でも嫌だ って思う考え方。だけど、その思いを後押しするみたいに、篤士は彼女を作ろ うとはしなかったから。 　篤士は、意外と女子に人気がある。何人か告白した人もいるけど、私の知っ てる限りでは、その誰とも付き合おうとさえしなかった。そのくせ、女の子の 興味がないかというと、そうでもないらしい。だから、きっと私のことを思っ ていてくれるんだと、勝手に思っていた。 　ずっと、篤士の側にいられればいいな。私は、いつもそう思ってる。そして、 その思いは日々が過ぎて、年月を重ねるたびにどんどん大きくなっていった。

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「おはよう、好美」 「うん、おはよー」 　学校に着いて、クラスメートのみんなと元気に挨拶をする。篤士とは別のク ラスなのがちょっと残念だけど、クラスのみんなのことは友達として好きだっ た。もちろん、嫌な人もいるけど、それはそれ。全員が良く思う人って、いる はずがないからしょうがないことだった。 　とにかく、この日も学校での一日が始まる。朝のホームルームで先生が出席 をとり、簡単な連絡事項を伝える。そのあと、休み時間があって午前中の授業。 私の場合、朝は結構頭が働くから、ちゃんと授業は受けることが出来た。 　そして、お昼。凄い喧騒の学食で、人混みに揉まれながらなんとかご飯を調 達して、みんなと喋りながら食べる。この時間は、私にとって一番楽しい時間 だ。 　でも、問題は午後の授業。ご飯を食べたばかりなので大概眠くなる。この日 もご多分に洩れず眠かった。何とか、本当に何とか一時間近い授業を乗り越え る。そして、休み時間になると何故か眠気が飛んで、また次の授業が始まると 眠気が襲ってくる。その繰り返しで、とにかく午後は睡魔との戦いだった。 　やがて、午後の授業が一通り終わると帰りのホームルームの後に下校。でも、 掃除当番の人は掃除が待ってる。この日、私は掃除当番じゃなかったけど篤士 が掃除当番だったので仕方なく私は人地で帰ることにした。 　途中、公園の前を通りかかると、おじいさんがわんちゃんを散歩させていた ので、側に駆け寄っていく。 「こんにちは、おじいさん」 　私は、このおじいさんが好き。それと、このおじいさんが連れてるわんちゃ んも大好きだった。 「今日も元気だね、好美ちゃん」 「うん、それだけが取り柄だから」 　そう言いながら、わんちゃんの頭を撫でる。中型の雑種で、人見知りしない 上に大人しいから、本当に可愛い。出来ることなら、こうやって一日中撫でて いたい気もする。 　もっとも、そんなことをしてると家に帰るのが遅くなるので、しばらくして 気が済んだら、おじいさんにお礼を言って家に帰った。 　居間にいるママに一言声をかけると、私は自分の部屋に行く。そして、着替 える前にベッドの上で横になって、いつものように今日一日の出来事を整理し てみた。 　今日は平凡で、あまり波風が立たない日だった。午後は眠くて眠くてしょう がなかったけど、それ以外は特に何も無い一日。でも、何も起こらないからこ そ、幸せだっていうことを実感出来た。 　そう、唯一の心残りといえば、篤士と一緒に帰って来れなかったくらいかも しれない。

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四角く切り取られた白い部屋。また、この様子が私の前に広がる。ああ、い つもの夢だなあと思いながら、これもいつものように手足を動かそうとしてみ る。でも、当然のように手足は動かない。仕方ないので、私は目の前に広がる 光景をじっくりと見つめることにした。 　今日の私は、部屋の壁を見つめている。視界の中に布団がかけられた自分の 足が見えるから、ベッドのようなものの上に座って上体だけを起こしているみ たいだった。部屋の中は暗くて、ほんの僅かだけど周りの様子が判る程度の明 かりが、廊下の方から差し込んでいる。 　この部屋は病室かもしれない、と私はいつからか思うようになっていた。ベ ッドだけがある殺風景で、白い壁の部屋ともなれば病室くらいしか思い浮かば なかったから。でも、私はどうしてこんな夢を見るんだろう。それが不思議だ った。だって、私は元気が取り柄で、入院なんてしたこともないのに。 　その時、私はふと何かを感じた。目の前の壁。白い壁が暗闇に浮かび上がっ ていたはずなのに、いつの間にかその壁が周りの闇より更に深い闇になってい た。そして、その闇の中で何かが動いている。 　私はそこに意識を集中してみた。確かに何かがいる。でも、それが何なのか は判らない。私は更に意識を集中してみたけど、その瞬間、周りの風景が徐々 に希薄になって、気が付くといつもの見慣れた部屋の様子が広がっていた。 　枕元の時計を見ると、まだ夜明け前。さすがに起きるにはまだ早い時間なの で、私はもう一度目を閉じた。

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朝。窓から差し込む光りと、小鳥のさえずりを聞きながら目を覚ました。寝 ぼけた頭で時計を見ると、またまたいつもの時間。ようするに、寝坊だった。 　急いで部屋を出て、洗面所で顔を洗う。そして歯を磨いて、髪の毛を梳かし た。もっともも、この日は寝癖が酷くてそれを直すのにちょっと時間がかかっ た。 　いい加減に切りたいなぁって思ってる私の長い黒髪。でも、何かきっかけが ないと髪の毛を切るっていう気になれない。もっとも、こんな風に時々寝癖が ついちゃうんだから、そろそろだって思ってた。 　そして、やっと寝癖を直して部屋に戻るために廊下に出ると、またパパが出 かけるところに出くわした。 　二人は当然のようにお出かけのキス真っ最中。でも、今日はいつもと違って 熱い抱擁つきだから随分と長い。 　普通、娘が見てる前でやるかぁって思うけど、今の二人にはそんなこともお 構いなしなんだろう。仲が良いんだから、文句は言えないか。仕方ないので、 私は二人の側を通って自分の部屋に戻った。 　着替えが終わると、キッチンに行っていつものようにパンを食べる。今日は いつもより一分ほど早いからちょっとだけ余裕があった。 「そうそう、よっちゃん、今日の晩ご飯は何がいい？」 「え？」 　いつもはご飯のことなんて聞きもしないのに、どういう風の吹き回しだろう。 「別に、ママの好きなのでいいけど」 「そう。じゃ、そうするわね」 　何だか変なのって思ったとき、家のチャイムが鳴ったので、食べかけのパン を口にくわえて、鞄を取ると玄関まで行く。そして、靴を履くとパンを食べな がら外に出た。 「また寝坊か？」 　玄関を開けた途端、そういう失礼なことを言ったので、私は篤士の足に蹴り を入れた。 「痛ってえなぁ〜！」 「ふ〜んだ、そっちが悪いんでしょ。ほら、行くわよ」 　私はパンを急いで飲み込むと、まだうずくまってる篤士を一人置いて歩き始 めた。それは、天気のいい、朝の風景。今日もまた、一日が始まる。

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学校での一日は、特に変わりがない。授業を受けて、お昼を食べてまた授業 を受ける。午後の授業中は、眠くて眠くてしょうがなかったのはいつものこと だった。そして、下校時間。日が傾いて、西の空が綺麗な茜色に染まるころに 私は家に帰る。途中、あのおじいさんに出会ってまたわんちゃんの頭を撫でた。 　本当に代わり映えのない一日。退屈で、平凡な日々だけど、面倒なことが嫌 いな私にはちょうどいい日々が続いていく。 「これが幸せなのかなぁ」 　草の上に横たわって、私は独り言のようにそう呟いた。ここは、近所にある 野原。時々来る場所で、今日はおじいさんと別れた後、ちょっとだけ寄り道を するつもりで来た。制服が汚れるかもしれないけど、私はいつもそんなことは お構いなし。時折吹く風が、草の匂いを運んで鼻の奥を刺激し、同時に私の髪 を撫でていく。私は、風に弄ばれている髪の毛を、片手でそっと整えた。 　この瞬間が、私はとても好きだった。ずぅ〜と、このままでいられたらいい。 私は、ここに来るたびにそう思う。幸せな現在が、ずっと永遠に続けばいいと。 　でも、世の中には辛いことが多いし、この幸せが永遠に続くとは思わない。 いつの日か、辛いことが現実として訪れることは判っていた。だから、その時 まではこうしてささやかな幸せを大切にしていきたかった。

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四角く切り取られた白い部屋。そう、またあの夢。でも、今日はちょっとだ け様子が違った。 　いつもは暗闇に包まれていた部屋の中だけど、今日は昼間のように明るい。 実際に、開け放たれた窓からとても強い日差しが差し込んでいて、その明かり が白い部屋全体に乱反射してる。だから、目を開けてると眩しくてしょうがな かった。 　そんな部屋の様子を私は昨夜と同じように、上体だけを起こして見ているら しい。もっとも、あまりにも眩しすぎて、目の前にあるはずの壁もよく見えな かった。 　しばらくその様子を見つめてみるけど、これといった変化は無い。手足は今 までと同じように動かないし、視線を動かそうとしてもまるで駄目だった。だ から、いつものようにこの夢が覚めるのを待つしかないのかと思っていた。 　でも、あまりにも明るい日差しのせいで、徐々に目が痛くなってくる。いい 加減に目が覚めないかなって思っていると、光が一気に広がって目の前が真っ 白になった。そして、その真っ白い景色の中に何かが動いていた。 　始めは何が動いてるか判らなかった。でも、直感的に昨日、闇の中で動いて いたのと同じだと判る。やがて、徐々にその様子が判るようになってきた。 　光の中に、ごくわずかに輪郭が浮かび上がる。それは、人だった。それも少 女。でも、そこまで判った時、視界が暗転していく。そして次の瞬間、目の前 に広がっていたのは見慣れた私の部屋の光景だった。

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「予知夢なんじゃないか？」 　朝の清々しい空気の中、一緒に歩く篤士はそう言った。 「予知夢？　予知夢って、未来に起こることを夢で見るっていうあれ？」 「ああ。お前、超能力でもあったんじゃないか？」 「何馬鹿なこと言ってるのよ」 　朝。いつものように、一緒に学校に行く途中で、ここの所頻繁に見るように なった夢のことを篤士に相談してみた。その答えがこれ。 「何だよ。お前、超能力とか信じてないのか？」 「信じてないわけじゃないけど、今までそんな力が私にあったら、もっと早く から言ってるよ」 「まあ、そりゃそうか。じゃあさ、昔のことを夢に見てるってのはどうだ？」 「あのね、私と何年付き合ってるの？　今まで私が、入院とかしたことある？」 「そうだなぁ。お前って、元気だけが取り柄だもんな……あ゛！」 　その言葉を言い終わらないうちに、私は篤士のお腹に肘鉄を食らわした。ま ったく、篤士に聞いた私が馬鹿だったかもしれない。それに、朝早くからこん な話をしたって、信じて貰えるはずもないか。 「ほらぁ、早く行くよ〜」 　うずくまってる篤士にそう呼びかける。 「あ……の……な、お前いきなり……」 「ほらほら、男が細かいこときにするんじゃないの。先に行っちゃうよ」 　肩の辺りに手を添えて、篤士を煽る。さすがに、ちょっときつくやりすぎた かなって思ったけど、篤士はすぐに立ち上がって一緒に歩き始めた。 「ねえ、それよりさ、明日何の日だか覚えてる？」 「明日？　えーと、何だっけ？」 　別に期待はしてなかったけどね、こうもはっきり言われちゃうとなぁ。 「本当に忘れちゃったの？」 　とりあえず食い下がってみる。篤士に思い出して欲しいから。 「あー、何だっけかなぁ。日曜日だってのはだめか？」 　私は、篤士の足を思いっきり踏みつけると、一人足早に学校へと歩き始めた。 まったく、篤士の甲斐性なし。明日は、私の誕生日だって言うのに。あまりに も腹が立ったから、私はそのあと振り返りもしないでとっとと歩いていった。

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四角く切り取られた白い部屋。またあの夢。この日は、白い部屋の中が窓か ら差し込む日の光のせいで赤く染まっていた。きっと夕方なんだろうって思っ たけど、その様子をしばらく見ていた私はとても寂しい気持ちになった。 　今までは薄暗かったり、明るすぎたりして部屋の中をはっきりと見ることが 出来なかったけど、今はちゃんと部屋の中が見渡せる。殺風景な部屋で、少な くとも私が見える範囲には特にこれといった物が無い。あるのは、今は夕日の せいで赤く染まっている白い壁だけ。その様子は、まるで時間が止まってしま ったみたいな感覚がして、とても寂しく見える。そして、その寂しさは、徐々 に妙な嫌悪感へと変わっていった。 　この部屋は嫌い。理由なんて判らないけど、今目の前に広がる情景をこれ以 上見ていることなんて出来ない。すると、目の前の光景が薄らぎ始め、見慣れ た自分の部屋の様子が広がった。 　また、あの夢。でも、今日のはいつもとはちょっと違った。だって、いつも は夢を見終わった後、こんな気持ちにはならなかったから。 　夕日が射し込む白い部屋。そして、その様子を何もせず見ている私。どうし て私は、こんな夢を見るんだろう。まさか、本当にあれが予知夢で、私の未来 の姿なのかと考えるとちょっと怖くなる。あんな寂しい情景なんて、見たくな いから。 　それに、どうせ見るなら、もっと楽しい夢がいい。そう楽しい夢。例えば、 好きな人と一緒にいる夢とか。 　その時、ちょうど私の脳裏に篤士の顔が浮かんだ。すると、途端に顔が熱く なり恥ずかしさが込み上げてきたので、私は掛け布団を抱き締めて右へ左へと 悶絶した。 「やだやだ、どうしてこんな時にあいつの顔が〜」 　まだ夜明け前の部屋で、好きな男の顔を思い浮かべて一人悶絶する私って、 端から見れば馬鹿かもしれないかな。 　とりあえず、そのことですっかり気分が入れ替わった私は、もう一度布団に 潜り込んで目を閉じた。今度は、もっと良い夢が見られるようにと思いながら。

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「お〜い、好美〜」 　誰？ 「おいってば」 　誰かが、私を…… 「起きろ〜」 　私を呼んでるのかな？ 「おいこら〜、起きろ〜」 「ん〜、まだ眠い〜」 　布団を抱き締めながら寝返りをうつと静かになったので、私は安心して寝息 を立てた。 「起きろ、こら〜」 　急に私が抱き締めてた布団がはぎ取られたので思わず目を開けてみると、何 故か篤士が覗き込むようにして私を見ていた。 「何で篤士がここにいるのぉ〜？」 「おい、まだ寝ぼけてるのか、起きろよ〜」 　寝ぼけてって、私寝てて、篤士がそこにいて…… 「え！？」 「起きたか？」 　今、そこに篤士がいる。手に、私の掛け布団を持って。 「お〜い」 「え？　え？　え？」 　篤士が、篤士がいる。それも、今私の前に。私の布団を持って。 「起きたな」 「きゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜！！！！！！！！！！！」 　そりゃ、天井が突き抜けるくらいの大声が出てもおかしくないでしょ。でも、 この時の声は本当に凄かったみたいで、近所にも聞こえてたみたい。 「ななななな、何であんたがここにいるのよぉ〜！」 「ば〜か、寝ぼすけを起こしに来てやったんだよ。感謝しろよな」 「起こしにって――」 　その時、私は自分がパジャマ姿だってことに気が付いて、篤士が持ってる掛 け布団をひったっくると頭から被った。 「お〜い、聞こえるか〜」 　顔が熱い。まさか、篤士が私の部屋にいるなんて思わなかったし、それに今 の私の格好も恥ずかしいし。 「ほら、早く着替えて行こうぜ」 「え？　行くって何処へ？」 　布団から顔だけ出して聞いてみる。 「いや、まだ決めてないけどさ、適当にぶらっとね」 「適当にって、何よそれ」 　何だか無計画で行き当たりばったりなこと言ってるから、ちょっと睨み付け てみる。すると篤士は、視線を逸らして呟くように言った。 「いいだろ。せっかくの誕生日なんだから、ちょっとくらい適当でも……」 「あ……」 　ふっという感じで、私の心に何かが舞い降りた気がした。それは春の日溜ま りみたいに暖かくて、とっても心地よかった。 「何だったら、着替えさせてやるか？」 「え！？」 　いつもの私なら、手近にある物を投げつけてあろう限りの悪口雑言を浴びせ かけてるところだけど、今はそんなことは出来なかった。 　胸がどきどきしてる。それに、顔は熱く火照って何だかとても熱いし、口も 何かを言おうとしてるんだけど、まるで言葉が出てこなかった。 「ほら、外で待っててやるから、早く着替えろよ」 　そう言って、篤士は部屋の外に出ていったけど、私はその後もしばらくは布 団にくるまったまま動けなかった。 「誕生日、覚えてくれてたんだ」 　嬉しい。凄く嬉しい。昨日は、あんなこと言ってたんだけど、ちゃんと覚え てくれてたんだ。そう思うと、私はますます興奮して頭から布団を被り、ベッ ドの上で一人悶えてた。 　結局、その興奮が収まったのはそれから十分くらいしてからのこと。余りに も遅いので、どうしたのかと篤士が声を掛けてくれてからだった。

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女の子の準備っていうのは、結構時間がかかるものだ。特に、今日はいつも より念入りだったので余計に時間がかかったと思う。髪の毛を梳かすのだって、 いつもより長く念入りだったし、服を選ぶのだって散々迷った挙げ句に決めて も、それでもまだ迷うっていう感じだった。 「さて、何処に行くか」 　家を出て二人列んで適当に歩き始めたとき、篤士がそう呟いた。でも、私は 何も答えない。こういう時は、誘ってくれた男の子に任せるのが普通だと思う から。 　私が黙っていると、篤士は適当に歩き始めたので私もその後に付いていく。 そして、気が付くと、私達は電車ですぐの所にある遊園地へと来ていた。 　もう、何回か来たことのある遊園地で、乗り物もアトラクションも、何度も 乗ったり見たりしてるから飽きちゃってる。でも、飽きているはずのものが、 この日はまるでそう感じられなかった。 　何を乗っても、何を見ても楽しい。まるで、初めてこの場所に来たみたいに、 私は我を忘れてはしゃいだ。 　途中、お腹がへったから出店でクレープとやきそばを買って、ベンチに座っ て食べた。クレープは甘くておいしかったけど、篤士にはちょっと甘すぎて駄 目だったみたい。仕方ないから、私が篤士の分まで食べたら、「太るぞ」って 言われたので殴ってやった。 　やきそばは、さすがに私には多かった。だから、篤士が私の分を食べてくれ た。こういう時、男の子っていうのはいいなって思った。 　その後、二人でコーラーを飲んだ。冷たくて、喉の奥に気持ちいい刺激が染 みこむみたいに広がる。それが、とても心地よく感じられた。 　お腹が膨れると、私達はまた遊園地の中を見て回った。さすがに、食べてす ぐに乗り物はまずいだろうから。 　そして、気が付くと辺りはすっかり暮れてしまっていた。もっとも、この遊 園地は夜遅くまでやってるから、周りにはまだまだ人がいっぱいいる。それに 夜になれば、今度はカップル達が多くなるから、むしろ人が多く感じられたほ どだった。 「観覧車に乗ろう」 　そう言ったのは、篤士の方だった。私に断る理由何て無かったし、この頃に なると全てを任せちゃってたから、すぐにＯＫした。 　そして、二人っきりになった観覧車の中で、篤士が私にりぼんの付いた小さ な箱を手渡してくれた。 「誕生日、おめでとう。好美」 　私への、誕生日プレゼント。でも私は、その箱を無言のまま受け取ると手の 中で包みこむようにしてうつむいた。 「あ、ありがとう」 「ああ……って、お、おい、何泣いてるんだよ！？」 　その言葉が耳に入って、私はやっと我に返った。篤士の言うとおり、私の瞳 からは涙がいっぱいに溢れていたから。 「あ、ご、ごめん。私、つい」 　自分でも意外だった。だって、私が篤士の前で泣くなんて随分久しぶりのこ とで、少なくともここ数年では一度も無かったから。 「う、嬉しくて。私、私……」 　何か感謝の言葉を言おうと思うけど、それもうまく出てこない。とにかく、 嬉しくて嬉しくて、どうしようもなかった。 　でも、嬉しいことはそれだけじゃ終わらなかった。涙を拭ってる私を見て、 篤士はすぐ隣に座って私を抱き締めてくれたから。 「ずっと、一緒にいようぜ」 「え！？」 「だから、一緒にいようぜ。ずっと……」 　告白。そう、告白だった。それも、私の好きな人が私への告白。 「うん」 　私は、篤士の胸の中でそう返事をしていた。嬉しくて、もう何も考えられな い。私の夢が、希望が、全て叶ったんだから。 　でも、そんな胸一杯の時、脳裏に稲光のような閃光と、ある光景が浮かんで、 私は思わず頭を押さえてうつむいてしまった。 　今、脳裏に浮かんだ光景。それは、あの四角く切り取られた白い部屋だった。 窓から吹き込む風に揺れるカーテンがさみしく揺れている光景。でも、どうし て、こんな時にあんな夢が。 「どうした？」 「うん、大丈夫」 　心配そうに声を掛けてくれた篤士にそう言うと、私は軽く頭を振った。でも、 何だか頭の奥の方が痺れてる。さっきのは一体何？ 　結局、そのあとは気分がすぐれないので、すぐに帰ることになった。せっか く、凄い幸せの中にいたのに。

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四角く切り取られた白い部屋。私の嫌いな夢だ。しかも、この日の夢は、篤 士の思いを受け止めて幸せの中にいた私を邪魔した夢の続きみたいだった。 　白い部屋の中で、壁を見ている私。そして、少しだけ開いた窓から吹き込ん でいる風が、カーテンを大きく揺らしている。そう、間違いなくあの時見た光 景だった。でも、一体どうして、こんな夢を私は見るんだろう。 　そう思っていると、私はふいに人の気配を感じる。今、目の前に広がる視界 に入らない所。私の横か背後に誰かがいるのを感じる。でも、私は振り向くこ とが出来ないから、それが誰なのかはまるで判らなかった。

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朝、目が覚めた。でも、起きた瞬間から妙に頭が重く感じられる。時計を見 ると、いつも起きる時間よりも三十分ほど早かった。もう少し寝ようかと思っ たけど、頭の重さに反して、まるで眠れるような気がしなかったから、私は仕 方なく起きることにした。 　いつものように、洗面所に行って顔を洗う。途中、パパとママが出かけると ころに出くわして、その仲の良さぶりに辟易するのもいつものことだった。 　部屋に戻って制服に着替え、キッチンに行って朝食を食べる。しばらくする と、家のチャイムが鳴るから、私は鞄を手にとって家を出る。玄関では、当然 のように篤士が待っていてくれて一緒に学校へ行く。 　途中、篤士と昨日のことで話をして、ちょっと気分が高揚したけど、頭の重 さは取れなかった。 　学校に着くと、いつものようにクラスのみんなへ挨拶をする。そして授業が 始まると、睡魔と戦いながら必死になってノートを取った。 　お昼ご飯を食べて、午後の授業も当然のように睡魔との戦い。早起きしたせ いなのか、それともこの頭の重さのせいたのか、いつもより眠く感じられた。 　そして、学校が終わり一人で帰る。途中、あのおじいさんに出会ってわんち ゃんの頭を撫で、その後でいつもの野原へ行き、草の上に横たわって空を眺め た。 　そう、今日も一日が終わった。それも、いつもと同じ一日。でも、何か違和 感がある。いつもと同じはずの一日なのに、何処かいつもと違う。そんな感じ がした。 　私は、目を閉じてみた。すると、私の髪を撫でていく風を、肌いっぱいに心 地よく感じることが出来る。朝から頭が重かったので、このまま、この心地よ さがずっと続けばいいなと思った。でも、それは、長くは続かなかった。 　私の脳裏に、再びあの光景が浮かぶ。そう、四角く切り取られた白い部屋だ。 私は思わず目を開いて辺りを見回し、そこがいつもの野原だということを確認 すると、軽くため息をついた。 「一体、何なのよ！」 　思わず叫んでいた。朝から続く頭の重さ。妙な違和感。そして、何故か浮か び上がる白い部屋の光景。何かが、何かが私の身に起こってる。そんな気がし た。でも、一体何が起こってるのか。 　まさか、本当にあれが予知夢で、あの白い部屋の光景が未来の姿なんだろう か。 「好美」 　ふいに、声がした。私が振り向くと、そこには篤士が柔らかな笑顔を浮かべ てたたずんでいた。 「どうしたんだ、こんなところで？」 　私は、立ち上がって彼の側に近寄っていくと、そのまま抱きついた。 「おい、どうしたんだよ」 　心配そうに声をかけてくれる篤士。でも、私はその問いかけには答えなかっ た。何故なら、違和感が更に大きく広がっていたから。 　怖い。何かが、何かが私に迫ってきてるのが判る。でも、それは一体何？ 「どうしたんだよ、ほら」 　篤士が私の頬に手を添えたので、私は思わず彼の顔を見上げていた。ずっと、 昔から好きだった人。そして昨日、恋人同士になった私達。でも、でも…… 　その時、私の中から何かが出てこようとしているのが判った。だから私は、 必死になってそれを止めようとする。でも、それを止めることは出来なかった。 「あなた、誰？」 　そして、その一言から全てが始まった。

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自分の口からついて出た言葉。それは、自分でも耳を疑う言葉だった。 「あなた、誰？」 　また、彼に聞き返す。でも、彼は怪訝な表情を浮かべるだけで何も答えては くれなかった。 　聞くまでも無いじゃない。誰の名前は篤士。私の幼なじみで、好きな人。そ んな言葉が、静かに頭の中に響いている。でも、私の口から出る言葉は違って いた。 「あなた、誰？」 　もう一度、その言葉を口にする。すると、今目の前にいたはずの篤士が、静 かに暗闇へと溶け込むみたいに消えていき、気が付くと私の周りもいつの間に か夜になってしまったかのように真っ暗闇だった。 「ここ、何処？」 　何が起こったか判らない私は、とりあえず足を一歩前に出してみる。すると、 ガシャンという音と共に、何かが頭にぶつかった。 　頭をちょっとさすってみる。でも、不思議と痛みは無かった。一体、何にぶ つかったのかと思って見上げてみると、それは窓の縁だった。 「何よ、これ？」 　辺りを見回してみる。すると、そこは何処かで見たことのある小さな空間だ った。 「これ、観覧車の……」 　見間違えるはずがない。昨日、私が篤士から告白を受けた観覧車のゴンドラ だった。でも、どうして。私、さっきまで野原にいたはずなのに。 　困惑したまま、ゴンドラの中を見回してみる。すると、ちょうど背後にある ドアが、私を待ち受けているかのように大きく開かれていた。 　きい、きいという音でもたててるみたいに、開け放たれたドアが揺れている。 少し怖い感じもしたけど、私はそのドアの側に寄り頭だけを出して外を見回し てみた。でも、そこには真っ暗な闇が広がっているだけで、何一つ見ることが 出来ない。 　私がまるで何かに導かれるかのように、ゴンドラの外に恐る恐る片足を踏み 出しみると、そこには不思議と抵抗があった。足の先から伝わってくる感触で は、そこにはちゃんと地面があるみたいだった。それで安心したのか、私はも う片方の足を踏み出してゴンドラから出た。 　でも、その瞬間だった。さっきまで暗闇に包まれていた私の周りが、一気に 開けて青い空と海が広がる海岸へと変貌していた。 「ここ、何処？」 　耳に届く、寄せては返す波の音。肌を撫でていく潮風。そして、抜けるよう な青い空と、そこに浮かぶ白い雲。まるで、何処か遠い異国の地にいるみたい な風景。そんな風景の中で、私は足首まで海に浸かって、ただ一人たたずんで いた。 「好美」 　突然、背後で声が聞こえたので私は振り向く。すると、そこにはパパとママ がいた。仲が良い二人。いつも寄り添って笑顔を絶やさず、優しく接してくれ る私の両親。今も二人列んで、パパはママの腰に手を回している。本当に仲の 良い二人。 「好美」 　今度はすぐ右で声がした。私が振り向くと、そこにはクラスのみんながいた。 いつも一緒に勉強をしている友達。きっと、一年のうちで一番多くの時間を共 有している大切な仲間達。辛いことも、悲しいことも、同じ世代だから分かち 合える、気心のしれたみんな。 「好美ちゃん」 　また背後で声がした。振り向くと、そこにはあのおじいさんがいた。すぐ側 には、わんちゃんが舌を出して尻尾を振っていた。私の好きなおじいさんとわ んちゃん。いつも、学校の帰り道で出会う一人と一匹。 「好美」 　今度は左で声がした。振り向くと、そこには篤士がいた。私の幼なじみ。そ して、一番好きな人。やっと恋人になれた、大切な、本当に大切な人。 「好美」 「好美」 「好美ちゃん」 「好美」 　みんなが私の名前を呼び始める。それと同時に、世界が廻り始めた。 「好美」 「好美」 「好美ちゃん」 「好美」 　まるで、私を中心にして世界が廻っているみたいだった。そして、その周り にいるみんなは四方八方から私に呼びかけてくる。 「好美」 「好美」 「好美ちゃん」 「好美」 　何が起こってるのか判らない。いつも優しくて、大好きだったみんなの呼び かけは、次第に恐怖へと変わっていった。 「一体、何なのよぉ〜！」 　ついに耐えきれなくなった私は、目を堅く閉じて耳を両手で塞ぐと、その場 にしゃがみこんでしまった。

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どれくらい時が過ぎただろう。目を閉じたことによる暗闇と、耳を塞いだこ とによって訪れた静寂が、いつしか私を包み込んでいた。 　そっと、目をあけ、同時に耳を塞いでいた手を恐る恐る離してみたけど、耳 から感じることが出来たのは静寂だけだった。 　でも、安心して顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。目の前に広がっていたの は、あの暗闇の中に浮かび上がる、四角く切り取られた白い部屋だったからだ。 「どうして――」 　すぐ横で声がして、私は驚いて振り向いた。 「どうして、夢を拒絶してしまったの？」 　そこには、白い着物を着た一人の少女がたたずんでいた。長い髪の毛を、頭 の上で丸く結い上げ、赤いリボンをした少女。 　直感で判った。彼女は、あの白い部屋の中で、光や闇の中にいた少女だとい うことを。 「美……夕……」 　そして、私は彼女の名前を、自然に口にしていた。そう、彼女の名前は美夕 だ。 「せっかく、夢を上げたのに」 「ゆ……め……」 　彼女の言葉を真似するように口にしてみる。そして、今自分がいるこの状況 を理解しようとした。すると、ものの数秒で私は全てを思い出していた。私は、 夢を見ていたっていうことを。そして、今、この場所にいる私が現実の私だと いうことを。 「でも、私の夢、終わっちゃった……」 「うん、そうだね。終わっちゃった」 　まるで事も無げにそう答えると、美夕はため息をついて言った。 「時々いるの、あなたみたいに夢を夢として見きれず、幸せを幸せとして受け 取れず、自分自身で現実へと戻ってきてしまう人がね。一言で言えば、現実的。 現実に捕らわれすぎる人。それが、あなた……」 　その美夕の言葉に、私が困惑していると、美夕は背を向けて私から離れよう とした。 「待って、何処に行くの？」 　呼び止めるようにそう言うと、美夕は肩越しの私を一瞥すると呟いた。 「夢を見ることが出来ないあなたに、私がしてあげられることはもう何もない から」 　そして、美夕はそのまま暗闇の中に吸い込まれるように消えていった。まる で、始めからそこにいなかったみたいに。 　一人残された私は、しばらく放心したように辺りを見回していた。でも、あ る時不意に自分が静寂の中で一人にいることに気が付いたとき、一気に悲しみ が溢れ出してそのままベッドにうつぶせになって泣き始めた。

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平凡な日常。それが、私の夢だった。側にいる私が恥ずかしくなるくらい仲 の良い両親。その両親が生み出す暖かい家庭の温もり。お互いの時間を、その 場で共有することが出来るクラスメート達。学校の帰りに、ちょっとだけお話 が出来るおじいさんとわんちゃん。そして、幼なじみで、いつも側にいてくれ る大好きな人。 　そんな日常を、いつも夢見てた。だって、現実は辛いことばかりだったから。 もっとも、その辛い現実は、もう間もなく終わりを告げるかもしれない。 「好美ちゃん、気分はどう？」 　看護婦さんが点滴を変えながら、いつものように笑顔で私に語りかけてくる ので、私は顔を背けて「悪くないです」と蚊が鳴くような小さな声で答えた。 「何かあったら、呼んでくださいね」 　そう言うと、その看護婦さんは出ていった。そして、部屋の中に一人残され ると、私はほっと胸を撫で下ろす。だって、例えどんな人でも、今の私の姿を 見て欲しくないから。 　やせ衰えた手足。指なんて、殆ど肉が無くて骨と皮だけ。体も、昔は気にな っていたお腹の周りの肉も無いし、肌も荒れていた。そして、何よりも一番悲 しいのは、髪の毛が無いことだった。 　薬の影響で、髪の毛は全て抜け落ちてしまった。そんな副作用を起こす薬が、 一体どういうものなのか私でも判る。もっとも、薬の投与は何日か前にうち切 られたようだった。それが、何を意味するのかは判らない。でも、日に日に衰 えていく自分の体がその理由を証明していた。もう、薬は必要無いっていうこ とを。 　娘がこんな状態だって言うのに、両親は私に会いに来ない。仲が悪く、離婚 裁判さえも起こしている両親は、私の面倒をどちらが見るのかということで更 に揉めていた。私の命がかかってる状況だっていうのに、冷たい両親だった。 　辛い現実。未来さえも閉ざされてしまった私の人生。だから、せめて夢を見 たかった。ささやかで、平凡な日常。大好きな人達に囲まれている、幸せな毎 日を。 　そして、ある日私は美夕と出会った。もっとも、出会ったというより、美夕 の方からやってきたというべきかもしれない。 　永遠の夢をくれるって言った美夕。私は、そんな美夕の言葉にすがった。だ って、私には他に何も失う物などないのだから。 　そして、見た夢はとても綺麗だった。私の望んだ日常がそこにあった。平凡 すぎる日常を暮らしていく私がそこにいた。でも、私はその夢をずっと見てい くことが出来なかった。夢を、夢として見ることが出来なかった。 　どうして私が夢から覚めてしまったのか、それは私にも判らない。美夕は、 「時々私みたいな人がいる」と言っていた。夢を見ることが出来ない人が。そ して、私はそんな人のうちの一人だった。 　今の私に残されているもの。それは、私自身と辛い現実だけ。でも、その現 実も間もなく終わる。私は、その最期の時を、きっとこの四角く切り取られた 白い部屋の中で迎えることになるだろう。 　ふいに、窓の外に目を向けてみた。そこからは、ほんの僅かだけど青い空が 見えて、白い雲が風に吹かれて、ゆっくりと流れていた。 　 虚実の時（完）

あとがき