兄妹


 暖かいようでいて肌寒い風が、とある学校の校庭を舞っている。そんな風の
中に、一人の少女がたたずんで、校舎を見つめていた。

「この気配、覚えがあるな」

 少女が独り言のようにそう呟くと同時に、その背後に黒いマントに身を包ん
だ人物が姿を現した。

「ねえ、ラヴァも覚えてるでしょう。あの時、逃がした神魔のこと」

「今、ここにはいないようです。しかし、潜り込んでいることは確かでしょう」

 ラヴァと呼ばれた人物が、そう言うと少女はクスクスと笑いだした。その声
は、夜の校庭に響き渡り、辺りに闇に溶け込んでいった。

☆    ☆    ☆

 赤い炎が襲いかかってくる。俺は何とかそれをかわすと、必死になってその
場から逃げだした。その姿はあまりにも情けなかったが、構ってなどいられな
い。とにかく逃げなければという思いだけが俺を動かしていた。でも、恐怖で
すくんだ体は思うように動かず、足ももつれてまともに走ることも出来ない。
その間にも監視者の炎が、何度も何度も襲いかかってくる。やがて、その炎の
一つが目の前まで迫ってきて、俺はもう駄目だと思った。

「お兄ちゃん!」

 その声と共に、体を揺すられて目を覚ました。

「大丈夫、お兄ちゃん」

「悠佳……」

 目の前には、心配そうな顔で覗き込む悠佳がいた。だが、目が覚めたばかり
の俺には、今自分がどこにいるか判らず、思わず辺りを見回した。そこは、夜
明け前の薄明かりが窓から差し込んでいる、見慣れた自分の部屋だった。

「凄くうなされてたんだよ。怖い夢でも見たの?」

 夢。そうか、夢だったんだ。でも、今のは夢であっても夢ではない。あれは、
監視者と戦い、命からがら逃げてきたかつての記憶だった。 

「凄い汗だよ」

 悠佳は、心底心配してくれているのか、未だに心配そうな表情を浮かべなが
ら、体を起こして枕の上に敷いてあったタオルで額の汗を拭ってくれた。こん
な時、側に入れくれる人がいるというのは、正直言ってありがたい。もし一人
だったら、しばらくは立ち直れなかったかもしれない。だから、感謝の意味も
込めて悠佳の頭を撫でながら「ありがとう」と言った。

 すると、悠佳は嬉しそうに微笑み返してくる。そんな悠佳の微笑みを見てい
ると、不思議と嬉しくなり、悠佳の頭を撫で続けていた。ところが、しばらく
して落ち着いてきた俺は、今の俺達の状況に気がつく。

 今俺達は、一つのベッドの中で体を寄せ合って横になっていた。そして悠佳
はというと、掛け布団を胸の辺りまでかけていて、肩の辺りは白い肌が露出し
ていた。

 それはいつものことだったけれど、そうでないことを祈りつつ悠佳が被って
いる布団をそっと持ち上げてみる。すると悠佳は、「きゃ!」という短い叫び
声を上げ、その布団を自分の腕で押さえた。

「やだもう。見ないでよ、お兄ちゃんのエッチ」

「あ、ああ、ごめん」

 俺は反射的に謝っていたが、途端に自己嫌悪に襲われる。今、僅かに見えた
けど、悠佳は思った通り何も着ていなかった。そして、体の感覚からして、俺
も何も着ていないことが判る。

「また、やっちまったか」

 呟くようにそう言ったあと、俺は目線を壁の方に向けてため息をつく。一つ
のベッドで、男と女が、一糸まとわぬ姿で寝ている。一体何があったのか、誰
にでも判ることだろう。それに、これは初めてのことでもなかった。

「お兄ちゃん、私の裸見たいの?」

 そんな俺の心情を知ってか知らずか、悠佳はそう言うと、体をもそもそと動
かして抱きついてきた。何も着ていない悠佳の、柔らかくて、ふわふわした体
の感触が直に伝わってくる。そんな悠佳から逃げるように体を動かすが、狭い
ベッドの上で、しかも壁際にいる俺に逃げるような場所はなかった。

「おい、やめろって」

 仕方なく、拒絶するような態度を取るが、悠佳は意に返さない。俺の首に腕
を回し、そっと頬をすり寄せてくる。

「いいじゃない。今更、恥ずかしがることもないでしょ?」

 今、布団をめくろうとして恥ずかしがったのは誰なのかと思ったが、そんな
ことはとうに忘れてしまったのだろう。俺は仕方なく、悠佳のしたいようにさ
せてやったが、これが逆効果になった。

「ねえ、お兄ちゃん。もう一回する?」

 耳元に、そっと囁きかける言葉。それは、妹という女からの誘惑。

「慰めてあげようか?」

 驚いて振り向いた俺の目に映ったのは、さっきまでと違い、男を誘うような
目つきをした悠佳だった。

「ば、馬鹿。何を言って――」

 そう言いかけた時、俺の唇は悠佳の唇で塞がれた。あまりに突然のことなの
で、頭を振って逃げようとも思ったが、悠佳は俺の上に覆い被さって両手で頭
を押さえつけてくる。こうなると、もうどうすることも出来ない。何しろ悠佳
は、身長や体全体の大きさが俺よりも大きいので、それをはねのけるともなる
と相当な力が必要になる。だけど、そんな力を出せば悠佳が危ないので結局満
足な抵抗が出来なかった。

 やがて数秒もすると俺の意識は次第に遠のいていく。悠佳に唇を奪われると、
いつもこうだった。自分の意思に関係なく、意識を無くし、更に理性まで奪わ
れてしまう。

 俺が抵抗しなくなると、悠佳は唇を離した。すると、俺の意思を無視するよ
うに体が勝手に動いて悠佳の上に覆い被さった。そして、まるで何者かに操ら
れているように悠佳の体を味わい始める。さっきまで俺を押さえつけていた悠
佳は、急にしおらしくなって俺のなすがままになり、体をくねらせて悶え始め
た。

 きっと、次に目覚めるのは夜が明けてからだろうが、そこで俺はまた自己嫌
悪に陥ることになるのだろう。

 意識がなくなる最後の瞬間、耳に届いたのは悠佳の艶めかしい喘ぎ声だった。

☆    ☆    ☆

 カーテンの隙間から差し込む、朝の明るい日差しを受けて俺は目を覚ました。
寝ぼけた頭のまま辺りを見回すとすでに悠佳の姿はない。階下から朝食を作る
音が聞こえてくるので、先に起きて食事を作ってるのだとすぐに判った。何故
なら、この家に住んでいるのは、俺と悠佳の二人だけだから。

 ここで本来なら自己嫌悪に陥る所なのだが、時計を見るといつもならもう起
きている時間だったので、俺は早々にブレザーの学生服に着替えて部屋を出た。

 居間に行くといい匂いが漂っている。台所には、俺と同じ学校の女子用ブレ
ザーに身を包んだ悠佳が、エプロンをして朝食のみそ汁を作っているところだ
った。

「おはよう、お兄ちゃん」

「ああ、おはよう」

 悠佳は毎朝、屈託のない笑顔と元気な声で俺を迎えてくれる。それは夜、ベ
ッドの中で見せる表情とは違って、今時の、悠佳くらいの年齢の少女が見せる
元気な笑顔そのものだった。

「もう、元気ないなぁ。しゃきっとしてよ、しゃきっと!」

 悠佳は片手に鍋をかき回していたお玉を持ち、腰に手を当てて、俺に言い聞
かせるようにそう言った。だけど、すぐに振り返ってお玉で鍋の中のみそ汁を
かき混ぜる。

「でも、しょうがないか。昨日は二回もしちゃったしね」

 そう言った悠佳に俺はちらりと視線を送った後、ため息をついた。毎度のこ
とながら、恥ずかしいことを平気な顔で言うやつだと思いながら、朝食が用意
されているテーブルの椅子に腰をかけた。

「はい、お兄ちゃん」

 悠佳がみそ汁を入れたお椀を置き、俺の前に食卓を挟んで座ると、お互いに
「頂きます」と言って食事を始めた。

 毎朝、悠佳が必ず作ってくれる朝食。味のうまさなんて、今ひとつ判らない
けど、それでも自然に手が出てしまう。そんな時、俺はテーブルの端に束にな
って置かれている封筒や手紙に気がついた。

「悠佳。あの手紙の返事、どうするんだ?」

 食事をしながら、そんなことを聞いてみる。すると悠佳は、口の中にものを
入れながらしゃべり出した。正直言って、行儀が悪い。

「別に……返事なんてしないよ。だって、殆どが女の子からじゃない。私にど
うしろっての?」

 そりゃそうだ。女からの告白を受けて、うれしがる女はいないだろう。まあ、
中にはそういう奴もいるかもしれないが、悠佳はそんなタイプじゃないだろう
し。

「それにね……」

 悠佳はそう言うと、口の中のものを飲み込んで、真っ直ぐ俺の目を見た。

「私の思いを独り占め出来るのは、お兄ちゃんだけだから」

 俺は一瞬の沈黙のあと、鼻で笑った。すると、悠佳もクスクスと笑い出す。

「ほら、くだらないこと言ってないで、早く喰って学校行くぞ」

 とりあえず、作り笑いを浮かべてそう言った。すると、悠佳は「うん」と答
えて、急いで皿の上の物を口の中に放り込んでいった。もっとも、悠佳の食べ
る量というのは俺よりも遥かに少ない。ご飯であれば、茶碗半分。パンは一枚
も食べればお腹いっぱいになるという小食だ。その割にはスタイルはいいし、
体力もあるので、俺は感心していた。

 ただ、そんな姿を見ているとき、視線の中に悠佳の首筋にある、まだかすか
に残っている二つの痣が目に入り、俺は自己嫌悪に陥りながら食事を続けた。

☆    ☆    ☆

「おい、悠佳。そろそろだぞ」

 そう言って振り返り、俺よりも背が高い悠佳を見上げながら腕を動かした。
でも、悠佳は楽しそうに笑顔を浮かべたまま、「もう少し」と言って放そうと
しなかった。

 毎朝、繰り返される光景。それは家を出て、学校への通学の際に、家から大
通りまで出る細い道を二人で腕を組んで歩くこと。だけど、悠佳の腕の組み方
は普通じゃなかった。

「おい、そろそろ腕が痺れてきたんだけどな」

 悠佳の身長は百七十五センチ前後で、俺は百六十五センチ前後。実質十セン
チ近く差があるので、悠佳と腕を組むと吊り上げられるような感じになり、や
がて腕が痺れてくる。

 それに、これははっきり言ってかなり恥ずかしい。他人には、仲のいい兄と
妹というより、頼りない弟を引っ張る姉という風にしか見えていないだろう。

 だから俺は、何度もやめろと言っているけど、悠佳はどうしてもと言って聞
かない。この時も、「あと少しだから我慢して」と言い含められてしまった。

 やがて、しばらく行くと大通りに差し掛かる。そこは他の生徒達が大勢通る、
学校への通学路だった。

「あ〜あ、着いちゃった」

 悠佳は残念そうな声を上げ、やっと俺を解放する。

「ほら、行って来いよ、悠佳先輩」

 痺れた腕を振りながら、からかうような口調でそう言うと悠佳は不満そうに
口を尖らせて、大通りへと足を踏み出した。そして、俺はその後ろを数メート
ル程離れて歩き始める。すると、数分も経たないうちに、一人、また一人と女
生徒が悠佳の周りに集まり始め、やがて歩道いっぱいに広がって歩くことにな
った。

「悠佳先輩、おはようございまーす」

 右手からそう声をかけられると、悠佳は笑顔で「おはよう」と答える。

「悠佳先輩、おはようございます」

 左手からそう声をかけられると、悠佳は振り返って同じように笑顔で「おは
よう」と答える。そして、また右手から声をかけられる。続いて左手からも声
をかけられる。その一人一人に、悠佳は振り返って挨拶を交わしていた。

 それは、いつもの光景だった。とにかく、悠佳は下級生から人気がある。何
しろ、女の子からラブレターを貰う位なのだから。

 そもそも人気の秘密は、時々助っ人として入る運動部の大会などだった。も
ともと、部活には入っていないのだが、助っ人を掛け持ちでやることがあり、
その際に大活躍をするのだという。当然その姿を多くの人に見られることにな
り、そして下級生に見初められるということだ。背が高いし、スタイルもいい
し、性格もいいし、スポーツ万能だし、おまけに頭もいいときてるので人気が
あるのも判る。

 そんな下級生達には、悠佳に俺という兄貴がいるというのは秘密だった。秘
密というと、大げさに聞こえたりもするが、別に自慢することでもないので、
出来るだけ知られないようにしていた。何しろ、この熱狂ぶりである。例え兄
とはいえ、男が側にいるとなれば、何をされるか判らないからだった。

 そんな悠佳達の姿を、いつものように後ろから見つめている時、俺は背後か
ら殺気にも似た強烈な気配を感じて、ゆっくりと振り向いた。そこにたたずん
でいたのは、中等部の制服を着た一人の女性徒。長い髪を頭の上で丸く結い、
赤いリボンをしている。

「おはようございます、先輩」

 俺はその姿を見た瞬間、まるで蛇に睨まれた蛙のように体が硬直して動かな
くなった。すると、その女生徒は口許に笑みを浮かべてそっと呟いた。

「それとも、お久しぶりって言った方がいいかな? はぐれ神魔さん」

 自分の顔から、血の気が引いていくのが判る。それと同時に、俺の記憶にあ
る恐怖の感情が再び頭をもたげてきた。足はすくんでしまい、ぶるぶると震え
ていた。

「そんなところに立ち止まってると邪魔になるよ」

 彼女は、そう言ってクスっと笑う。俺は体を動かそうと必死になり、何とか
二、三歩後ずさりする事が出来た。すると不思議なもので、さっきまで動かな
かった体が今まで通り普通に動くようになった。

 俺は踵を返し、学校へ向けて走り出す。その間、ただの一度も振り返ること
はしない。振り返ることなど出来はしなかった。

 しばらくすると、そんな俺の耳にクスクスという含み笑いが聞こえ始める。
俺の恐怖心は一層強くなり、周りすら見えない状態だった。途中、何人かの生
徒にぶつかったのさえ覚えていないくらいで、気がつくとへとへとの状態で昇
降口に辿り着いていた。

☆    ☆    ☆

 夕方になり下校時刻は過ぎていたのだが、俺は家に帰るのを少しためらって
いた。朝出会った女生徒のことが、頭から離れなかったからだ。

 あれは、確かに監視者だった。しかも、「お久しぶり」と言った。以前、無
謀にも監視者に挑んで無様にも逃げ延びた、はぐれ神魔である俺を覚えていた
かのような口調だった。

 あの時の恐怖が、俺の心を包み込む。だから今日一日、出来るだけ一人にな
らないように努めた。一人になれば恐怖に飲み込まれてしまうし、ひょっとし
たら監視者が現れるかもしれないと思ったからだ。

 おかげで、何とか昼間は気を紛らわすことができたし、監視者に会うことも
なかった。だけど、問題は下校するときだった。

 帰り道の何処かで、待ち伏せしているのは目に見えている。だからといって、
このままここに一人でいるのは、かえって危険であることも判っていた。下校
する生徒達の中に紛れて気付かれないように家に帰れば、何とか大丈夫かもし
れない。そんなことを考えていたのだが、いざ行動に移ろうとすると、なかな
か体が動かない。情けない限りだった。

 でも、教室の中にはもう殆ど生徒は残っていない。廊下を歩く連中も少なく
なってきている。このままいけば、もっとも危険な状態になるのは目に見えて
いたので、俺は重い腰を上げて家に帰ることにした。

 昇降口には、帰ろうとする生徒達が何人かいた。さすがにピークは過ぎてい
るので、数は少なかったが、それでも俺一人紛れ込ませることが出来る人数だ
った。俺は、見つからないでくれと祈りつつ、昇降口から足を一歩を踏み出し
た。

☆    ☆    ☆

「やっとお帰りなの、神魔さん」

 事態は最悪だった。昇降口から一歩足を踏み出したまではよかったが、校門
を出てすぐ俺の目の前に監視者が現れたからだった。

 もう逃げられない。そう思うと、俺の体から一気に力が抜けていく。

「ねえ、私のこと覚えてる?」

 その問いかけに、俺はどう答えていいか判らなかった。かつての恐怖が、徐
々に俺の心を包み込んでいく。

「……美……夕」

 震えた声でそう言うと、俺はうつむいた。すると、美夕は笑みを浮かべなが
ら一歩一歩、俺の側に歩み寄ってくる。その時、恐怖のあまり立ちすくんでい
た俺は、ふと背中に何かが当たった感触がしたので振り向いた。すると、そこ
には学校の塀がある。どうやら、無意識のうちに後ずさりしていたようだった。

「覚えてたんだ」

 背後の塀に気を取られているうちに、美夕は目の前まで来ていた。俺は、も
うそれ以上後ろには下がれないにも関わらず、更に後ろに下がろうと塀に寄り
かかり、足を振るわせながら美夕を見つめる。

「あの時は、逃げられちゃったんだよね」

 俺より背の低い美夕が、見上げるように見つめている。その瞳は金色に輝い
て、魔力を帯びているのが判った。

「随分、怯えてるんだね。昔みたいに、威勢良く戦いを挑んでこないの?」

 俺の脳裏に、かつての記憶が蘇った。監視者ごときに負けはしないと意気が
り、正面から突っ込んでいったあの時のことが。だけど、俺は返り討ちにあい、
命からがら逃げてきた。

「でも、安心なさい。今ここで、どうにかしようって訳じゃないから。ね、立
花先輩」

 そう言って笑顔を浮かべると、美夕の瞳から魔力の光が消えた。途端に気が
抜け、俺は荒くなった呼吸を整えるために肩で息をしていた。

「でも、立花徹(たちばなとおる)なんて、人間っぽい名前を名乗って、学校
に通ってるなんて、どういう風の吹き回しかな?」

 俺は、その美夕の問いかけにどう答えて良いか判らなかった。そもそも、俺
に名前なんて無い。とりあえず、あった方が人間の世界ではいろいろと便利だ
という理由だけで名乗っただけだったから。学校に通ってるのも、別に意味は
無い。ただ、悠佳の兄ということで、同じように生活をしているだけだった。

 そんな戸惑いの中、「お兄ちゃん」という、聞き覚えのある声がした。俺の
ことを、「お兄ちゃん」なんて呼ぶやつはこの世に一人しかいない。

 ところが、俺が声のした方を振り向こうとするよりも早く、そいつは俺の体
に体当たりしてきた。ゴンという音と同時に、後頭部に痛みが走り、目の中に
星が飛ぶ。俺は立っていられなくなり、頭を押さえながらその場にしゃがみ込
んだ。

「あ、ごめ〜ん。お兄ちゃん、大丈夫〜」

「おっまえなぁ〜」

 誰なのか見なくても判る。痛む頭を撫でながら片目を開けると、目の前には
ミニの制服のスカートから覗く綺麗な足があった。その足を、見ながらゆっく
りと視線を上に持っていくと、そこには予想通り悠佳が、笑顔を浮かべて俺の
顔を覗き込んでいた。

「後ろに壁があるの、気がつかなかったの。ごめんなさ〜い」

 そう言って両手を合わせ、甘えるような素振りで「ごめんなさい」のポーズ
を取るが、顔は全然謝っているようには見えない。

「体当たりはないだろ、体当たりは〜!」

 俺は、正直言って怒ってた。とにかく痛い。目に涙が浮かぶほどだったのだ
から。そもそも、悠佳と俺の体格の違いは背の高さだけじゃない。悠佳の方が
肩幅も広いし、全体的な肉付きもよかった。だからといって、無駄な肉という
者がまったくないその体は、出るところは出る。引っ込むところは引っ込むと
いう、女性にとって理想の体つきだった。もっとも、俺の体の線が細すぎると
いうのもあるが。

 ともかく、俺よりも大きい体の奴が、俺に向かって思いっきり突進してきた
んだから、たまったものではない。

「だから、ごめんって言ってるじゃな〜い。男なんだから、細かいこと一々気
にしないでよ」

 勝手だ。余りにも勝手な言い分だ。でも、しばらくすると俺は悠佳を許して
しまっている。何とも甘いやつだと、自分ながらに思った。そして、頭を撫で
ながらやっと立ち上がった時、目の前には呆然とした様子で俺達のやりとりを
見ている美夕がいた。

「お兄ちゃん、この娘だれ?」

 悠佳が、俺と美夕との雰囲気を察知したかのようにそう聞いてくる。

「え、え〜っと彼女は……」

 どう説明したらいいだろう。本当のことは言えるはずがないだろうし。だか
らと言って、嘘をつくのもまずい。何しろ、悠佳は俺の嘘を見抜くのにも長け
ていたからだ。いや、そもそも、俺の嘘が下手だという話もあるのだが。

 そんなことを思っている俺を後目に、美夕は笑顔で悠佳に答えていた。

「こんにちは、立花先輩。私、山野美夕っていいます」

「あ、どうも、こんにちは」

 美夕と悠佳は、お互いにそう言い合った。そして、悠佳の視線は再び俺に向
けられる。その目には、「この娘、誰?」という、先ほどの問いを目で訴えか
けているようだった。

「あ、そうそう、彼女は美夕っていって……えーと……」

 どもりながらだが、美夕の言葉に合わせるようにそう言った。だけど、その
後が続かない。すると悠佳は、「ふ〜ん」と言いながら俺と美夕の顔を交互に
見る。

「ねえ、ひょっとして、告白されてたの?」

 一瞬、その場の時間が止まったような気がした。三人の間を、何とも言えな
い空気が、風となって吹き抜けていく。

「ねえねえ、どっちからの告白?」

 悠佳は俺の腕を掴んで、興味津々という感じで聞いてくる。俺は、反論しよ
うとしたが、悠佳はそんな間がないくらいの勢いでまくしたててきた。

「でも、お兄ちゃんには女の子に告白するような度胸があるわけないから、き
っと彼女からだよね。ね!」

 そう言って、悠佳は美夕の側に駆け寄って、覗き込むように見つめた。

「うん、かわいいじゃない。でも、こんなにかわいいのに、何でお兄ちゃんな
んかと――」

「おい、ちょっとまて。いいかげんにしろって」

 ようやく俺は悠佳に声をかけることが出来た。すると悠佳は、「何よ〜」と、
不満な顔をしながら俺の側に駆け寄ってきた。

「何照れてるのよぉ〜。お兄ちゃんに告白なんて、この先あるはず無いんだか
ら、素直に受けとっときなさいよ〜」

 しししし、という笑い声が聞こえてきそうな笑みを浮かべて、肘で腹の辺り
をつついてくる。俺はいい加減に我慢出来なくなって、悠佳の頭を一発ひっぱ
たいた。すぱーん、といういい音が辺りに響く。

「いった〜い、何すんのよ!」

「さっきのお返し。それと、人の話を聞かないからだよ」

 悠佳は頬を思いっきり膨らませて、不満そうな顔をしたけど俺は無視した。

「えーと、彼女は美夕で、昔ちょっと話をしたことがあるんだよ。それ以外、
何もない。判ったか!」

 とりあえず他にどう言っていいか判らなかったし、本当のことを言う訳にも
いかなかったので、俺は今のこの雰囲気に乗るように、簡単にまとめて突き放
すようにそう言った。すると、美夕も俺の言葉を肯定するように、「その通り
です」言ってくれた。

「な〜んだ、つまらないのぉ〜」

 何がつまらないのかよく判らないが、何とか静まったようだった。俺はほっ
と一息つき、美夕に視線を戻す。だけど美夕は悠佳のことを見つめたまま言っ
た。

「痣……」

 呟くような美夕の声。その声に、俺はぎくりとした。

「首筋に、痣があるんですね」

「あ、ああ、これ?」

 悠佳が、自分の首筋を指でなぞりながら答える。ごく僅かに、うっすらと残
る二つの痣が、その指の間から見えた。

「あのね、ちょっと前に、っていってももう一年くらい前になるけど、お兄ち
ゃんが――」

「悠佳!」

 俺は悠佳の言葉を遮り、「帰るぞ」と言って、その場を去ろうと歩き出した。

「え、でもいいの。この娘は?」

「もう、用事は終わったんだよ」

 そう言って俺は一度だけ美夕を見ると、踵を返して歩き始めた。だけど、す
ぐに悠佳が俺の腕を掴んで引き留めようとする。でも、今度はさすがに引き留
められる訳にはいかなかった。とにかく、このままの勢いで、この場から離れ
てしまおうと思っていたからだ。

「待ってよぉ〜、お兄ちゃ〜ん。じゃあ美夕さん、またねー」

 ひらひらと手を振る悠佳。そんな悠佳の態度に、俺は頭が痛くなるような気
がした。

「さ、行こう、お兄ちゃん」

 今度は、悠佳が俺の手を引いて歩き始める。俺を引き留めておいて、今度は
自分が引っ張っていくんだから、勝手というか何というか。

 とにかく、色々とどたばたはあったが、俺は美夕と、監視者と再び出会って
しまった。それが何を意味するか判っていたけど、もう抗うようなことも出来
ないだろうとも、同時に思っていた。

☆    ☆    ☆

 昨日、美夕と出会ったことにより、俺はまもなく訪れるであろう運命を受け
入れられるのかどうかを考え始めていた。もっとも、受け入れようが受け入れ
まいが、そんなことは関係ないのだろう。闇に帰される。それが、はぐれ神魔
の運命なのだから。

 でも、俺がこんな思いに捕らわれているにも関わらず、すぐ側で脳天気に俺
と腕を組んでいる奴がいた。

「おい、悠佳。そろそろ離れろよ」

 今、俺達はいつものように学校へと続く、朝の通学路を歩いている。既に大
通りに入っているので、本来ならとっくに離れて別々に歩いてるはずだった。
だけど、この日に限って悠佳は俺から離れなかった。

「たまにはいいじゃない」

 無邪気な笑顔だった。これは、はっきりいって珍しい。元々、人前で甘える
ような仕草をすることはあっても、こういう風にべたべたするようなことはな
かったから。俺も悪い気はしなかったので、出来ることならこのままとも思っ
ていたのだが、問題は俺達の周りの目だった。

 今、俺達二人の周りで多くの生徒達が好奇の目で見ていた。特に下級生達、
中でも毎朝、悠佳の周りに屯している連中は凄かった。俺達の周りにいて話し
かけてくるわけでもなく、少し離れて一緒に着いてきている。時々、横目で彼
女らを見ると、正直言って怖い。「この人誰?」、という目で見る者もいるし、
涙ぐんでいる者もいる。一番怖いのは、殺気立って睨み付けてくるやつだ。

「ねえ、あの人誰かな? ひょっとして先輩の彼氏?」

「先輩って、ああいうのがタイプだったの?」

「何かひ弱そうだね」

「先輩が男の人何かとつきあうなんて」

「ひょっとして年下?」

「酷い、私の先輩を奪うなんて。今に見てなさい!」

「いつか天罰が下るのよ」

 女生徒達が、ひそひそと話をしているのが聞こえる。会話の内容も、正直言
って俺は寒気を感じた。そのうち誰かがナイフでも持ってきて、刺し殺される
んじゃないかとも思えてならない。そういえば以前、悠佳にちょっかいを出し
た男子生徒の一人が変死したなんて事件もあったが、ひょっとしてこいつらが
やったんじゃないかとも思えてきてしまう。

 ところが、肝心の悠佳はまるで気にしていない。むしろ、いつもより機嫌が
いいみたいで、にこにこしている。

 そんなこんなで、この日俺は何とか無事に学校までたどり着いた。美夕に闇
へと帰されるのが先か、悠佳のファンに殺されるのが先か。明日からの生活が、
思いやられる出来事だった。

☆    ☆    ☆

 学校を終え、多くの生徒達が下校していく中、美夕は校門を出てすぐの塀を
背にして一人たたずんでいた。目的はもちろん、悠佳の兄として潜り込んでい
る、あの神魔だった。昨日は挨拶程度で済ませておいたけど今日は違う。前は
逃げられたので、今回は絶対に闇に帰すつもりだった。

 美夕の前を、何人もの生徒達が通り過ぎていく。まだ、あの神魔は現れない。
その時、ふいに「美夕さん」という声が聞こえた。

「どうしたの、こんな所で?」

 そう言って話しかけてきたのは悠佳だった。

「こんにちは、立花先輩」

 美夕が会釈をすると、悠佳も「こんにちは」と言って答えてくれた。

「で、どうしてここにいるの。誰かと待ち合わせ? あ、判った。お兄ちゃん
を待ってるんでしょ?」

 笑顔を浮かべながらそう言ってくる悠佳に、美夕は苦笑しながら答える。

「いえ、そういう訳じゃないですけど」

「ふ〜ん、そうなんだ」

 そう答えると、悠佳は美夕の横に並んで経つと、同じように塀に寄りかかっ
た。

「ねえ、美夕さん。あなた、お兄ちゃんのこと好きなんじゃない?」

 突然、そんな質問をされて美夕は驚きの表情を浮かべた。

「だって、こんな所で待ってるなんて他に理由無いじゃない。昔からの知り合
いだなんて、すぐに判る嘘なんかついちゃってさ」

 待っていたということは間違っていないが、理由そのものが違うと美夕は思
った。それと、昔からの知り合いということについても。

「私は、昔からの知り合いですよ。きっと、先輩とお兄さんが出会う以前から」

 美夕は少し意地悪く、悠佳の心を動揺させることを言った。すると美夕の思
惑通り、悠佳は「え!?」と言って振り向いた。

「私と……出会う前? それって……」

 驚きと困惑の表情を浮かべたまま、悠佳はそう問いかけたが、美夕はクスク
スと笑っているだけだった。

「それより先輩こそ、お兄さんのことが好きなんじゃないですか。今朝のこと、
中等部でも話題になってましたよ」

 話をはぐらかすように美夕が言うと悠佳は視線をそらし、頬を少しだけ赤く
染めてうつむいた。その態度は、学校で知られている悠佳のイメージとはまる
で違うものに見える。

「今まで、出来るだけばれないようにって振る舞ってたんだけど、もういいか
なって思ってさ」

「そんなに、お兄さんのことが好きなんですか?」

「うん。だって、私の初めての人だし」

「え?」

「あ、うそ。ごめんなさい、今の忘れて!」

 大慌てで訂正する悠佳の姿を見て、美夕は眉をひそめた。

「でもね、お兄ちゃんのこと好きなのは本当だよ。きっと、世界の誰よりも一
番好きだと思うな。だから、ね――」

 悠佳は、そこで一度口をつぐむと振り向いて美夕を見つめた。そして、「お
兄ちゃんの周りに集まる女の子って私、好きになれないんだ」と言った。

 その時の悠佳は笑顔だったが、それは普段見せているものとは違い、どこと
なくぎこちなかった。そして何よりも、その目には明らかに美夕を敵視するよ
うな光があった。

 嫉妬。それが、美夕が咄嗟に思ったことだった。ところが、悠佳はすぐに普
段通りの笑顔に戻った。

「だけど、ちょっと安心した。こうやってちょっとだけど話して、美夕さんが
お兄ちゃんを好きじゃないって何となく判ったから」

「何で、判るんですか?」

「だって、美夕さんがお兄ちゃんのことを話す時って、あまり楽しそうじゃな
いから。普通、女の子ってさ、好きな人のことを聞かれたり話したりするとき
って、すごく楽しくなるから。違う?」

 美夕は特に何も答えず、ただ無表情のまま悠佳を見つめていた。確かに、悠
佳の言うとおり、女の子はそういう所があると思う。だけど、今の美夕にはそ
の感覚を思い出すことは出来なかった。

「その痣、どうされたんですか?」

「え?」

 話を逸らすように、美夕は悠佳の首筋にある痣のことを聞いた。昨日は聞け
ずじまいだったからだった。

「昨日、一年くらい前にどうのって言ってましたけど……」

「ああ、誰にも言っちゃ駄目だよ。実はさ、お兄ちゃんとちょっと遊んでてね、
その時にちょっと……噛みつかれてさ……で、こんな風に痕が残っちゃったの」

 どんな遊びをしていたか気にもなるが、それ以上に噛みつかれたことの方が
問題だと美夕は思った。

 ちょうどその時、「お兄ちゃん」という声を上げて、悠佳が校門の方へ小走
りに駆けていった。見ると、そこにはあの神魔が、片腕にぶら下がった悠佳に
苦笑しながら、横目で見入るように美夕のことを見ていた。

☆    ☆    ☆

 美夕と再会してから、数日が経っていた。俺は、あの日以来、毎日気が休ま
る暇がなかったのだが、同時に少しおかしいと思い始めていた。何故なら、美
夕が俺に何もしてこないからだ。もっとも、姿を現わしてもうまい具合に悠佳
がしゃしゃり出てきて俺を連れて行ってしまうので、仕方ないといえば仕方な
いだろう。

 でも、それなら夜にでも家に来るのかと思っていたが、それもいままで一度
もない。そもそも、家の周りに美夕の気配を感じたことさえもなかった。

 俺が苦しむのを見て楽しんでるのだろうかとも考えたが、まさか監視者がそ
のようなことをするとも思えなかった。

 それと、もう一つ気になることがあった。それは、美夕が現れて以来、悠佳
の行動が少しおかしくなりはじめていたことだ。以前は、人前で甘える仕草を
見せることはなかったのに、今は人前でも平然と甘えてくる。腕にぶらさがっ
たり、抱きついてきたり、時々キスまでしようとするのだから始末が悪かった。

 だけど、その反面、家に帰ると途端に大人しくなってしまう。二人きりでい
るとき、以前なら鬱陶しいくらいべたべたしてきたのに、今ではまるで素っ気
ない。夜も夜で、毎日のように俺のベッドに潜り込んで誘惑してきたのに、最
近は自分の部屋に籠もって朝まで出てこない。不思議なもので、以前は鬱陶し
いと感じていたのに、こうして何も無くなると寂しく感じてしまう。

 でも、これはこれでいいのかもしれない。もともと俺は、悠佳の兄として一
緒にこの家で暮らすことにしたのだから。以前のまま生活を続けていれば、悠
佳はある意味駄目な人間になってしまうだろう。監視者も現れたことだし、こ
のまま俺が運命に従って闇に帰されるのが、悠佳にとって一番いいことなのか
もしれないと思っていた。

☆    ☆    ☆

 閑静な住宅街の、とある家の屋根の上に、美夕は一人腰をかけて座っていた。
不機嫌そうな表情を浮かべ、目の前の、何の変哲もない一軒の家を見つめてい
る。しかし、美夕の金色に輝く瞳には、人の目に映ることのない壁が映し出さ
れていた。

 その時、ふいに美夕の傍らにラヴァが姿を現す。

「やっぱり、駄目?」

「はい。どこにも隙がありません」

 ラヴァの返答を聞くと、美夕はため息をついて表情を和らげた。

「でも、これほどの結界を毎日張り巡らせ続けるほどの力を持ってるなんて、
随分と成長したものね。あの時とは、まるで別人みたい」

 そう言いながら笑顔を浮かべると、美夕はクスクスと笑いはじめた。夜の闇
に包まれた静かな住宅街に、その声は不気味なほど響き渡っていた。

☆    ☆    ☆

 この日も、俺は悠佳と一緒に学校に行く。俺と腕を組んで学校に行くという
悠佳の行動は相変わらずだったし、周りにいる下級生達の殺気立った雰囲気も
変わらなかった。

「今日も一緒だよ、先輩達」

「ねえ、あの人、先輩のお兄さんって本当?」

「背も小っちゃいし、変なお兄さん」

「でも、どうしてお兄さんが先輩と同じ学年にいるの?」

「お兄さんが早生まれで、先輩が遅生まれだってさ」

「血が繋がってても、先輩が男の人と何て!」

「私達の先輩を独り占めなんて酷い」

「まだ天罰が下らないのかしら」

「殺してやりたい」

 恐ろしい会話だ。一体、どこで情報を仕入れてくるのやら。しかも、毎日こ
れだから嫌になってくる。悪かったな、小さくて変な兄貴で。俺だって好きで
兄貴やってる訳じゃないぞ。俺だって――。

 その時、ふと思うことがあった。そういえば、何で兄貴なんてやってるんだ
ろう。一年前、一人の少女の首に手を掛けた瞬間のことは今でも覚えている。
そして、その少女を殺すことが出来なかったことも。でも、俺は何故、人間と
一緒に暮らそうと思ったんだろう。一つの場所に留まれば監視者に見つかる可
能性が高くなるのに。

 ましてや、俺と悠佳の姿を見てもそうだ。どう見たって、兄と妹というより、
姉と弟の方がしっくりくる。何で、兄貴だったんだろう。まるで、覚えていな
い。何故……。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「信号、青」

「あ、ああ……」

 考え事をしているうちに、いつの間にか学校の前まで来ていた。この信号を
渡れば、学校まではすぐ。ここからは、校門すら見ることが出来る。やっと解
放される所まで来たんだ。ようやく一息つけると思ったのだが、校門のすぐ脇
に美夕が立っているのを見たとき、それも束の間かと思った。

 もうすぐ、俺は闇に帰される。この生活も、あと少しなのだろう。

☆    ☆    ☆

 それは、授業中のことだった。人間が学ぶことなど、俺には関係ないので授
業は毎回上の空だし、この時もそうだった。いつものように、真面目に授業を
受けているふりだけをしていると、俺は視線を感じてベランダの方を振り向い
た。

 そこには、美夕がいた。冷たく、何一つ感情を感じられない眼差しだったけ
れど、何を語っているのか容易に判ることが出来る。来るべき時が来たと思っ
た俺は、授業が終わると屋上へと上がった。

「呼び出して、ごめんなさい」

 屋上に一歩足を踏み入れた途端、頭上から声がした。俺が振り返ると、そこ
には出入口のすぐ上にある平場に腰掛けた美夕が、白い仮面で顔を隠した黒い
マント姿の神魔と一緒にいた。

「随分、遅かったな。もっと早く、闇に帰されると思ったんだが」

 見上げながらそう言うと、美夕はクスクス笑って答えた。

「そうだね。でも、あんな結界があったら、さすがに私でも近づけないから」

「結界?」

 一瞬、美夕が何を言ってるのか判らなかった。しかし、それを聞き返す間も
なく、美夕は話を続ける。

「ねえ、それよりも、ちょっと聞きたいことがあるの。あなた、悠佳に一体何
をしたの?」

 そう問いかけられた瞬間、俺の心に小さな痛みが走り、脳裏には悠佳に対し
てした、いくつもの光景が浮かんだ。

「あなたに対しての愛情とか、普通じゃないからねあの娘」

 美夕の言うとおりだ。悠佳の、俺に対する思いは普通じゃなかった。既に、
兄と妹という関係すら崩れてしまっている。もっとも、全て俺が悪かった。見
かけの割には無邪気で甘えん坊の悠佳を、あの日汚したこと。もともと、そん
なつもりはなかったのに。

 その時、ふいに疑問が浮かんだ。でも、じゃあ、どういうつもりだったんだ
ろう。俺は、悠佳と一緒に住んで、どうするつもりだったんだろう。

 今朝、確か似たような疑問を感じたはず。でも、こんなこと、今まで考えた
こともなかった。

「どうしたの?」

 頭上で美夕の声がして、俺は我に返った。

「いや、その通りだと思ってね」

 とりあえず、あいまいな返答をしておいた。自分の中でも、何が何だか判ら
ないから。そんな俺の態度を見てなのか、美夕はしばらく何も言わず、ただ俺
の様子をうかがっていたようだった。

 そして、ぽんという感じで俺の前に飛び降りると、上目遣いで俺の顔を見つ
める。

「あの娘の両親、亡くなってるんですってね。ねえ、それってあなたの仕業じ
ゃない? それと、あの娘の首筋にあんな痣をつけたのも」

 美夕の瞳が金色に輝きだしたのを見て、咄嗟に目線をそらした。そして、そ
のまま呟くように答える。

「もう、一年くらい前のことだよ。本当は、悠佳も殺そうと思ったんだが、何
故か出来なかった。だけど、一緒に住みだしたある日、気がついたら俺は、あ
いつの首筋に食らいついていた。でも、すぐに理性を取り戻してね。事なきを
得たんだが、痕だけのこっちまって……」

 そう。今思えば、あの時も何故理性を失ったのか判らなかった。

「昔は、人間を殺すなんてしなかったのに、どういう風の吹き回しかな? そ
れに、女の子の体に傷をつけるなんて、随分酷いことをするね」

 そう言ってクスクスと笑う美夕に、俺は何一つ反論することも出来ず、うつ
むいたままたたずむしかなかった。何しろ、傷はそれだけじゃないからだ。俺
は、あいつの体も心も、全て汚した。何もしらない少女に、あんなことをして。

 だけど、そんな思いに捕らわれているとき、思いもよらないことが起こった。

 たったったったという足音と「お兄ちゃ〜ん」という声と共に、悠佳が俺の
体に抱きついてきた、というより抱きしめたと言った方がいいかもしれない。
そして、すぐに振り向いて美夕を見つめる。

「美夕さん、どうしたの? ここは高等部の校舎なのに」

 悠佳は、俺を抱きしめる腕に力を込めながらそう言った。

「こんにちは、悠佳先輩。ちょっとお兄さんに会いに来たんですけど、もう用
事は済みましたから」

 すると美夕は、踵を返して下への階段の入口の中に消えていった。辺りを見
回すと、先ほど美夕の側にたたずんでいた黒いマントの神魔も、いつの間にか
姿を消していた。

「お兄ちゃん、駄目だよ。誰にも何も言わずに、何処かに行ったりしたらさ」

「あ、ああ、すまない」

 タイミングよく現れ、いきなり説教する悠佳にとりあえず謝ったのだが、よ
くよく考えてみれば、何でいちいち行く場所まで誰かに伝えなきゃいけないの
かと思った。だから、文句の一つでも言ってやろうと思ったのだが、悠佳は突
然、俺の手を引いて歩き始める。

「さ、お兄ちゃん。授業始まるよ、行こ」

 このことでタイミングを外した俺は悠佳に何も言えず、促されるまま屋上を
後にした。

☆    ☆    ☆

 赤と青の空間。そこに、生えている奇妙な形にねじ曲がった木の枝の上に、
美夕とラヴァは腰をかけていた。

「悠佳って、随分タイミングよく現れるよね」

 そう言って美夕はクスクスと笑った。

「あの娘も、神魔になるのではと思っているのですか?」

 ラヴァが、美夕の思惑を察したかのようにそう訪ねると、美夕は上目使いに
ラヴァを見つめて、くすっと笑った。

「彼は、そんな力を持ってるわけないから大丈夫でしょう。仮に、もし神魔に
変化していってるなら、私に判らないわけないしね。それよりも、悠佳のこと
私気に入っちゃった。だって、とても綺麗な夢を見そうな人だからね」

 そう言うと、美夕は笑みを浮かべ、舌なめずりをした。

☆    ☆    ☆

 道を行き交う人々が、すれ違う度に振り返る。男も女も、その好奇な視線を
俺達に注いでいた。

「なぁ、少し離れて歩かないか?」

「や〜だ」

 悠佳は少し悪戯っぽく答えると、組んでいる腕をいっそう強く抱き締めてき
た。俺は仕方なくそのままにさせていたが、しばらくすると周りの視線がまた
気になりだした。

 明るい色のシャツに、スラリと伸びた長い足を見せびらかすようなミニスカ
ート。そして、ミドルのコートを羽織って化粧をした悠佳は、普段の姿から一
変して大人の女の色気を醸し出していた。

 それが、どれくらいの美しさなのかは、すれ違うたびに振り返っていく人々
の多さを見れば判るだろう。もっとも、俺達のアンバランスさも興味の対象な
のかもしれないが。

 何しろ、今の俺は地味なシャツに、地味なズボン。そして地味な上着。しか
も、悠佳が踵の高いブーツを履いているためか、横に並ぶといつもより更に背
が低くなる。誰が見ても、悠佳みたいな美人が何故俺にと思うだろう。

 この日は日曜日。朝起きると、いきなり悠佳が買い物に付き合ってほしいと
言ったので、俺は渋々ながらも了承したのだが、それがこの結果なのだから、
やっぱりやめておけばよかったと思う。

 しかも、買い物と言っても、特に何かを買うという訳でもなく、二人でいろ
いろな物を見たり、食事をしたり、何気ない会話を交わしたりと、まるで恋人
同士のように過ごすだけだったから。

「ねぇ、お兄ちゃん。私達って、周りの人にどんな風に見られてるのかな?」

 他愛のない質問だったが、俺は答えなかった。というより、どう答えていい
のかが判らなかった。

「ねぇ、どう思う?」

 悠佳は、どうしても答えてほしいというような感じで問い掛けてくる。仕方
なく「恋人同士かな」と言うと、悠佳は笑みを浮かべて俺の腕をまた強く抱き
締めた。

 しょうがない奴だと思ったが、とにかく今の悠佳は楽しそうだった。その笑
顔を見ていると、何でも許せてしまう気がする。

 だけど、楽しい時間というのはあっという間に過ぎていった。気がつくと夜
が更け、店が閉まり出す時刻になっていたのだが、悠佳は帰りたくないと言っ
てきかない。何とかなだめて連れて帰ってきたが、家の近所にある公園の前を
通り過ぎるとき、悠佳は突然走ってその中に消えていった。俺は慌てて後を追
ったが、暗い公園の中ではその姿を簡単には見つけられなかった。

 でも、しばらくすると「わっ!」という声と共に、悠佳が背中に覆い被さっ
てきた。突然のことで俺は驚いたが、背後から腕を回して体を抱き締められた
ので、声を出すことはできなかった。

「お兄ちゃん、びっくりした?」

 俺の肩にあごを乗せて、耳元でささやくように悠佳は言った。

「お前、どうしたんだよ、突然……」

 でも、悠佳は何も答えず、クスクスと笑って前に回した手に力を込めて抱き
締めていただけだった。そして、しばらくすると俺を振り向かせて、また体を
抱き締めてくる。肩幅の広い悠佳が華奢な俺を抱き締めると、すっぽりとその
腕の中に入ってしまうが、俺は抵抗しようとせず、されるがままになっていた。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 しばらくの沈黙の後、悠佳が耳元で囁いた。

「私のこと、好き?」

 突然の質問。俺は驚いて振り向いたが、何も答えることが出来なかった。そ
の様子を見て、悠佳はせかすように呟く。

「ねぇ、答えて」

 何故そんなことを今更と思ったが、悠佳は潤んだ真っ直ぐな瞳で俺を見てい
るので仕方なく答えた。

「……好きだよ」

 途端に、悠佳の顔に笑みが浮かぶ。でも、その後俺は、「大切な妹だから」
と付け加えた。すると悠佳は神妙な面持ちになり、自分のおでこを俺のおでこ
にそっと合わせ、目を伏せた。

「妹なんだよね、私。でも……」

 そう言うと、悠佳はそっと薄目を開けた。そして、両手を俺の頬に添えると
顔を近づけてくる。そして、その唇が俺の唇に重なりそうになったとき、俺は
横を向いてそれを拒絶した。

 ほんの僅かな沈黙が訪れ、振りほどかれた悠佳の両手は力無く俺の肩に置か
れた。

「ごめん、お兄ちゃん」

 悠佳の声を聞いて、俺は驚いて視線を戻した。何故なら、その声は涙声だっ
たから。

「でも私、お兄ちゃんのこと好きだよ」

 悠佳は、瞳いっぱいに涙を溢れさせていた。泣くのを必死でこらえているそ
の姿を見ると、とても酷いことをしたと思ったが、そんな俺を悠佳は静かに抱
きしめてきた。大きな胸に俺の顔が埋まるような形になったが、不思議と息苦
しさはなかった。

「好きじゃなきゃ、あんな事なんて絶対にしないもん」

 あんな事というのが、何を指しているのか判った。だけど、それと同時に俺
は自己嫌悪に陥る。悠佳を妹として、一緒に過ごそうと考えたこと。それが、
あのことで全て壊れてしまったからだ。

「でも、悪いのは私だよね。お兄ちゃんを誘惑して、その気にさせたりしたん
だから」

「そんなことは無い!」

 突然、大きな声を出した俺に驚いたのか、悠佳は抱いていた腕を離した。そ
して、自由になった俺は逆に悠佳の両肩を掴んだ。

「あれは俺の責任だ! 俺が、ちゃんとしていれば!」

 そう叫んだ時、脳裏にあの日の光景が浮かんだ。「二人だけの秘密だね」と
言って、優しく微笑んだ悠佳の顔が。

「やさしいね、お兄ちゃん。だから、好きだよ」

 そう言って悠佳は涙を拭った。すると、その瞳にはいつも通りの元気な光が
戻っていた。

「でもね、私ってほら、いい女でしょ?」

 突然、悠佳は笑顔でそう言った。その変わり身の早さに俺がきょとんとして
いると、悠佳は俺の体を離して、二、三歩後ずさりし、くるりと一回転すると
クスクスと笑った。

「私ってさ、顔もそこそこでしょ? それにスタイルだって自信があるし。ち
ょっと背が高くて肩幅が広いから、かわいいって感じじゃないけど。でも、こ
んないい女に誘惑されたら、どんな男だってその気になるじゃない。だから、
お兄ちゃんが我慢仕切れなかったのもしょうがないんだよね」

 そう言うと、悠佳はぺろっと舌を出し、片目を瞑ってウインクをした。

「私、ちょっと心配してたんだ。ひょっとして、お兄ちゃんは女に興味が無い
んじゃないかってね。でも、安心した。あそこまでするんなら心配ないし、き
っといい女(ひと)も見つかるよ。あ、でも、もういい女はいるんだよね。美
夕さんなんて、毎日お兄ちゃんに会いに来てるし」

 随分と好き勝手なことを言ってるのだが、俺はあえて何も言わなかった。何
故なら、今の悠佳は無理をしているのが見え見えだったからだ。笑顔だって、
どこかぎこちない。美夕に対してのことだってそうだ。悠佳の、美夕に対して
の態度は正直言って好意の欠片も感じられないし、むしろ敵視しているのは俺
が見ても判るくらいだったから。

「それで、お前はいいのか?」

「ん? 何が?」

「自分の気持ちを抑えて、それでいいのかって言ってるんだよ」

 俺は、悠佳の気持ちをくみとったつもりでそう言った。すると、悠佳の顔か
ら先ほどまでのぎこちない笑顔が消え、普段見せている本当の笑顔を浮かべた
のが判った。

「いいの。だって、近親相姦だよ、私達のしてることって。いつまでも、こん
なこと続けて、いいわけないじゃない。だから、このままずるずると後に引き
ずるよりも、この辺りでやめた方が、私達にとっていいことなんじゃない? 
きっと、いい機会だと思うんだ」

 前向きな悠佳の答えに、俺は何も言えなかった。悠佳の言うことは、確かに
その通りで、以前から俺も気にしていたことだ。だけど、それがいざ、こうい
う形で終わりを迎えるということになると、一抹の寂しさみたいなものが感じ
られたりもする。

「悠佳、キスしてやろうか?」

 俺がそう言うと、悠佳は当然のように驚いた顔をする。だけど、すぐに笑顔
に戻って、「うん」と答えると、目を閉じてうつむいた。俺は悠佳の側に近づ
き、つま先立ちでキスをする。すると、いつものように、徐々に意識が薄れて
いった。

 この時、俺は思った。未練があるのは、俺の方だと。今まで、俺は確かに悠
佳との関係に思い悩んできた。神魔の俺が、何故こんなことをするのかと。だ
けど、今思えば、俺はこの関係に満足感を抱いていたのかもしれない。そうで
なければ、こんなに寂しい思いになることもなかっただろうから。

☆    ☆    ☆

 目が覚めたとき、目の前にあったいつもの光景。着ていた服は、床に無造作
に脱ぎ捨てられ、お互い裸のままベッドに横になっている。キスしたあとの記
憶はまるでない。だけど、その間に何があったのかは容易に想像は出来た。

 今、悠佳はベッドの中で気持ちよさそうな寝息を立てている。そんな寝顔を
見ながら、俺は最後になるであろう自己嫌悪と戦いながら、足下に落ちている
服を着て、その傍らに座り込んだ。

「ごめんな、悠佳。お前の両親を殺しちまって」

 悠佳の頭をそっと撫でながら、俺は悠佳と初めて出会ったあの日のことを思
い出していた。監視者から逃れるため、助かるためには少しでも遠い場所へ。
その思いのまま、体力も気力も限界になるまで街という街を駆け抜けてきた。

 疲れ果て、身動きすらとれなくなり、力を得るために人を殺して魂を奪った。
二人目を殺し、魂を奪い、そして三人目。だけど、一番若く、生気に溢れたそ
の少女だけは、殺すことが出来なかった。

「何でだろうな。何で、お前だけを……」

 そう呟きながら、俺は悠佳に施した偽りの記憶を取り除き、新たな記憶を植
え付ける。兄などいない。この一年、一緒に過ごしたことや、楽しい思い出は、
全て幻。お前は、両親を事故で亡くしたけど、持ち前の元気と前向きさで生き
ていく女子高生だ。

 記憶の植え付けが終わると、俺は布団を悠佳にかけ直して、気づかれないよ
うに部屋を出た。そして、見慣れた家の中を歩き回り、俺がいたという痕跡を
一つ残らず消していく。ここに、俺という者の存在は無かったのだから。そう、
始めから何も無かったんだ。

 俺はもう、全てを終わりにする決心をしていた。美夕が来たこともあるし、
悠佳も俺とのことを吹っ切ろうとしてる。頃合いとしては、一番いい時期だろ
う。

 やがて、俺という存在の痕跡を全て消し去ると一息ついた。見慣れた家を去
るという思いが、不思議な感情を生み出し始め、一抹の寂しさが俺の心を満た
していく。

 その寂しさを振り切るように家を出ると、門の前に美夕が待ちかまえていた。

「やっと、出てきてくれた」

 冷たく響く美夕の声。以前、恐怖したその声だが、今は何も感じない。勝て
はしない。それは、あの時戦って判っているから。それに、正直言ってもう思
い残すことは無かった。

「向こうに公園がある。そこで……」

 不思議と落ち着いた声でそう言うと、俺は断頭台へと続く階段のごとき夜道
を、一歩ずつ歩き始めた。

☆    ☆    ☆

 公園。そこは少し前、俺がつま先立ちで悠佳にキスをした場所だった。でも、
今悠佳はいない。目の前にいるのは、監視者美夕と、その側にたたずむ黒いマ
ントに身を包んだ神魔だけだった。

「よく、外に出てくる気になったね。今まで、あの中にいて一歩も出てこなか
ったのに」

 あの中という言葉に、何となく違和感を覚えたが俺は気にせず話をすること
にした。

「もう、あきらめたんだ」

 あきらめる。そう、俺はあきらめていた。もう逃げられないし、何よりも逃
げる気力すらなかった。

「随分と潔くなったんだね。前よりも、力が強くなってるのに……」

 前より? 俺は今、美夕が何を言ってるか判らなかった。だけど、そんな疑
問もあまり気にならなかった。

「何で、何も答えないの?」

「そんな事よりも、早く闇に帰したらどうだ?」

 投げやりな言葉だった。というより、こうして覚悟を決めたにも関わらず、
何一つ行動を起こさない美夕の態度にいらいらしていたのかもしれない。

「そんなに、急ぐことないでしょ。まだ、あなたには聞きたいことがあるんだ
しね」

 そう言うと美夕はクスクスと笑い、俺の側に歩み寄ってくる。一体、何をす
るつもりなのかと、その様子を上目遣いで見ていた時、呟くような小さい声が
耳に届いた。

「お兄ちゃん」

 一瞬、俺は自分の耳を疑った。何故なら、俺を兄と呼ぶような者は、もう存
在するはずがないからだ。美夕もその声が聞こえたのか、歩みを止めてゆっく
りと振り向いた。そして美夕が振り返った先を見るよりも早く、そいつは駆け
寄ってきて俺に抱きついた。

「駄目だよ、お兄ちゃん。何も言わずに、一人で行くなんて」

 言わずと知れた悠佳だった。いつものように笑顔を浮かべて、俺を抱きしめ
ている。だけど、本来ここに悠佳が現れることはないはずだった。俺に関する
記憶は、全て消したはずなのに。

「悠佳、お前どうして……」

「だって、こんな時間に一人で外に出ていくんだもん。気になるじゃない。そ
れに、逢い引きって雰囲気じゃないみたいだしね」

 その返答は、俺が知りたいこととはかけ離れていた。そんな俺の心情を知っ
てか、知らずか、悠佳は振り向いて美夕を見つめた。いや、見つめたというよ
り睨み付けたという方が正しいかもしれない。

「ねえ、もういいんじゃない? 悠佳に本当のことを教えてあげれば?」

 美夕が、ため息混じりでそう言った。俺は仕方なく、悠佳の手をそっと握っ
て俺を離すように促した。

「悠佳、お兄ちゃんっていうのは、もう終わりなんだ」

 悠佳は、小首を傾げ、何を言っているか判らないという面持ちで見つめてく
る。俺は、両手を悠佳の肩に沿え、見上げるように悠佳の目を見つめた。

「俺は、お前の本当の兄貴じゃないんだ」

「知ってるよ、そんなの」

 その瞬間、悠佳の澄んだ声が公園内に大きく響き渡り、俺は驚きと戸惑いの
表情を浮かべた。いや、俺だけでなく、美夕も一瞬動揺したような態度を示し
たのが判った。

「全部、知ってるよ。お兄ちゃんが、本当のお兄ちゃんじゃないことも。お兄
ちゃんが普通の人間じゃないことも。それと、お兄ちゃんが、父さんと母さん
を殺したことも」

「全てを知っていて、一緒にいたってこと?」

 その美夕の問いかけに、悠佳は何も答えなかった。ただ、睨むように美夕を
一瞥して、視線を戻す。

「悠佳、いったい何時から……」

「そんなこと、どうだっていいじゃない。私は、お兄ちゃんのことが好きなん
だから。それより、終わりってどういうこと。私、お兄ちゃんとの関係は止め
にしようって言ったけど、兄妹までやめようなんて言ってないよ」

 俺は何て答えたらいいのか判らなくなった。全てを知っていた悠佳に、今更
何を言えばいいのか。

「ねえ、お兄ちゃん。ひょっとして、美夕さんが原因なの?」

 そう言うと、悠佳は美夕を睨み付けた。それは普段見せたこともない、まる
で獲物を狙う獣のような殺気を含んでいた。

「そんなに、お兄さんのことが好きなの?」

 美夕のその言葉が気に障ったのか、悠佳は美夕に挑みかかろうという素振り
を見せたので、俺はその動きを制した。だけど悠佳は、その制止を振り切るよ
うな勢いで歩を進めようとする。

「やめろ悠佳! お前は人間なんだ! これ以上、俺達に関わるんじゃない!」

 俺は、これ以上悠佳を巻き込みたくなかった。だからこそ、必死になって止
めた。でも、悠佳の力はもの凄く、腕を取って止めようとしても体ごと引きず
られてしまう。仕方ないので前に廻って止めようとしたが、それでも止められ
ない。まるで重戦車のように、目の前のものをなぎ倒していくような力強さだ
った。

「悠佳。あなた、ひょっとして神魔として目覚めたんじゃない?」

 背後で美夕がそう言うと、悠佳の動きが止まった。俺が見上げると、悠佳は
美夕を睨み続けている。

「ちょ、ちょっと待て。俺に、そんな力なんか……」

「でも、神魔であるあなたでさえ止められない彼女は、普通の人とは違う気も
するな」

 確かに、美夕の言うとおりだった。普段は、人として生活をするため、力を
抑えていたから体の大きい悠佳に負けていた。だけど、今はそんなことはない。
俺は無意識のうちに、全力で悠佳を止めたんだ。だけど、止めることが出来な
かった。

「悠佳、お前……」

 その時、俺の腹に強烈な衝撃が突き抜け、途端に息が出来なくなった。あま
りの苦しさに耐えきれず、腹を押さえてうずくまろうとしたとき俺の目に映っ
たのは、拳を握っている悠佳の姿と、「腰抜け」という言葉だった。

☆    ☆    ☆

 その時、俺は自分の周りで何が起こったのか判らなかった。とにかく、苦し
くて息も出来ない。必死になって呼吸をしようとするが、それもままならず、
ただ回復するのを待つだけだった。

「今の力、違うね」

 美夕の声。その声は背後から聞こえず、正面から聞こえてきた。俺が、苦し
みながらも顔を上げると、そこには思った通り美夕がいた。美夕の鋭い眼光が、
悠佳の背中を見つめているのが判る。何時の間に悠佳の背後に回ったのか気に
なったが、まだ回復しきっていないので声は出せなかった。

「あなた、人じゃないでしょう?」

「こんな腰抜けじゃなければ、騙し通せると思ったんだけどね」

 何だ。何を言ってるんだ。俺は、今の二人の会話の意味を理解できなかった
ので、まだ痛む腹を押さえながら側にいる悠佳を見上げた。その途端、周囲に
強力な衝撃波が広がり、その勢いをまともに受けた俺は、地面を数メートル程
転がる。そして、再び悠佳を見上げた時、俺の目に映ったのはいつもの悠佳で
はなかった。

「驚いたわね。まさか、あなたが神魔だったなんて」

 美夕がそう呟く中、俺は混乱の極致にいた。姿は変わっていない。でも、今
の悠佳からはそれまで感じる事の出来なかった魔力が、溢れんばかりに立ち上
っている。しかも、俺よりも数倍の力を持っていることは容易に感じ取ること
が出来た。

「私も、ちょっと予想外だったよ。こいつがこんな腰抜けじゃなければ、正体
をばらさずにすんだのに。まぁ、ある程度予想はしていたけどね」

「それは、彼を利用していたってことかな?」

「そうだよ。私が自分の力を封印しておけば、監視者にばれないで済むと思っ
たから」

「そういうこと……考えたものね。それじゃ、あの家に張り巡らせていた結界
も、あなたのものなんだ」

 悠佳が神魔? 俺を利用? そんな、一体、どうして。俺には、まるで理解
出来なかった。それこそ、悪い夢でも見ているのではないかと思えたほどだ。

「悠佳、お前、どうして……」

 混乱している俺がそう言うと、悠佳は歩み寄って来て、俺を見下ろした。そ
して次の瞬間、うずくまっている俺の体を思いっきり蹴り上げた。

 自分の体が人形のように跳ね上がったのが判る。一瞬遅れて地面に叩きつけ
られると、体のあちこちに痛みが走り、収まりはじめていた腹の痛みもぶり返
してきた。更に、うずくまっている俺の頭を誰かが踏みつけてくる。それが、
悠佳であることはすぐに判った。

「や、やめろ〜」

 必死の懇願だった。体中に走る痛みさえ忘れるくらいに。だけど、悠佳は止
めるどころか、余計に力を込めてきた。

「凄い変わり様だね。さっきまでの甘える姿は、どこにいっちゃったの?」

 美夕がそう言った時、ようやくその力が弱まった。だけど、踏みつけている
足は、そのままだった。

「芝居は、上手いほうなんだ」

「芝居……ね。でも、種明かしをするにはちょっと早すぎたんじゃない? も
う少し黙ってても、きっと私は気がつかなかったと思うけど」

「どうかな? 私は監視者がそんなに鈍いとは思えないけど。まぁ、今更そん
なことはどうでもいいけど」

 芝居……種明かし……何だ……一体何を。そう思ったとき、悠佳は倒れこん
でいる俺の襟首を掴み、片手で自分の目の高さまで持ち上げた。苦しみで目を
開けるのさえ辛い俺の視界いっぱいに、悠佳の顔が映る。

「…………邪魔だから、とっとと消えてよ」

 一瞬、悠佳の言葉に間が空いたのを感じた後、周囲に強烈な突風が吹いた。
そして次の瞬間、俺の体は宙を舞っていた。いや、飛ばされたという表現の方
がいいかもしれない。公園を飛び越え、近くの民家さえも越えていくのが判っ
た。

 そして、強烈な衝撃とともに体が地面に叩きつけらると、俺は全ての意識を
失った。

☆    ☆    ☆

 どれくらいの時が経ったのだろうか。俺は急に意識を取り戻すと、自分が何
時の間にか路地裏を歩いていることに気がついた。だけど、体中は軋むように
痛み、呼吸は荒く、意識は朦朧として真っ直ぐ歩くことが出来ないので足下は
ふらついていた。

「そうか……俺は、悠佳に飛ばされて……」

 朦朧とした意識の中、不思議とそのことだけははっきりと判った。だけど体
の痛みは凄まじく、しばらくすると気が遠くなりはじめ、無意識のうちに塀に
寄りかかって座り込んでしまった。

 このまま、死ぬかもしれない。そう思うほどの痛みが体中を駆けめぐる。そ
れと同時に、せっかく戻った意識も次第に薄らいでいった。

「悠佳……」

 薄らいでいく意識の中、何故か悠佳の名前を呼んだ。脳裏には悠佳の笑顔が
浮かんでいる。だけど、その姿も、徐々に薄らぎ始めた。

 体が傾き始める。何度も何度も。だけど、そのまま意識を失うと思った俺は、
ふいに現実へと引き戻された。何故なら、誰かが俺を呼び、体を揺すっていた
からだった。

「お兄ちゃん!」

 その声が耳に届いた時、俺は目を開けた。そこには、心配そうな顔で覗き込
む悠佳がいた。

「お兄ちゃん。早く、ほら逃げなきゃ!」

 そう言って悠佳は俺の腕を肩に掛け、支えるようにして立ち上がらせた。

「ごめんね。ちょっとやりすぎたみたい。でも、これぐらいしなきゃ欺けない
と思ったから……」

 俺には、悠佳が何を言ってるのかが判らなかった。まだ意識は朦朧としてい
たし、これが夢なのか現実なのかの区別もついていなかった。

「……家に帰ろう」

 やっとのことで口ずさんだ言葉。すると、悠佳は笑みを浮かべて「うん」と
返事をした。

「帰ろう。私達の家へ」

 そう言って笑顔を浮かべた悠佳を見た途端、俺の意識は再び闇の中へと消え
ていった。

☆    ☆    ☆

 冷たい。顔に、冷たい何かが触れている。何だろう。でも、何だか気持ちが
いい。

「お兄ちゃん?」

 耳元で悠佳の声が聞こえて、俺は目を開けた。見ると、悠佳は濡れたタオル
で、俺の顔を拭いていた。何故か、その瞳は涙ぐんでいる。徐々に戻り始める
意識。俺はとりあえず、辺りを見回した。そこは、いつも見慣れている自分達
の家のリビングだった。

「ごめんね、お兄ちゃん。こんな酷い怪我をさせちゃって」

 怪我……そうか、俺は確か悠佳にやられたんだ。その時、俺は先ほどまでの
美夕とやりとりを思い出して起き上がろうとしたが、その途端に全身に痛みが
走る。

「駄目だよ。もう少し楽にしてないと」

 悠佳がそう呟いたが、俺はとりあえず上体だけを起こした。そして、もう一
度頭の中で、これまでの出来事を整理する。公園で、美夕に出会ったこと。美
夕と話し、そこに悠佳が現れたこと。そして、悠佳が神魔だったこと。

 俺は、振り向いて悠佳の顔を見つめた。

「悠佳。お前……神魔、だったんだ」

 すると悠佳はややうつむいて、しばらく間を空けた後、俺の傍らに腰を下ろ
してから答えた。

「ごめんなさい。騙すつもりはなかったの」

 涙声でそう答え、悠佳は手で目をこすってから顔を上げた。その瞳には、ま
だ涙が光っていた。

「ねえ、お兄ちゃん。私達が初めて会った日のこと覚えてる?」

「初めての会った日?」

「うん。もう、記憶は戻ってるはずだから、思い出せると思うけど」

 記憶。記憶って一体、何を言ってるんだ? 俺と悠佳が初めて出会った日。
それは一年近く前。この家に来て、二人の人間の命を奪って、その様子を物陰
で見ていた一人の少女がいた。それが悠佳だった。

 でも、そこまで思い出したとき、その記憶とは違う別の記憶が少しずつ滲む
ように溢れ出して来た。そして、それは次第に元の記憶を覆い隠していく。

「思い出した?」

 悠佳がそう問い掛けてくる。だけど俺は、すぐには理解することが出来なか
った。今まで、俺の心にあった記憶の代わりに溢れ出す、もう一つの記憶が、
俺の頭を混乱させる。

「話、してみて」

 俺は一度悠佳の顔を見つめたあと、目線を逸らした。そして、蘇った記憶を、
初めから噛み締めるように話し始めた。

「あの時、この家の中に入った俺が見たのは、一人の神魔の姿だった。そして、
その神魔と戦いになった。でも、戦いは一方的で力量に劣る俺は圧倒的力の差
で負けて……気を失った」

 俺は、頭を抱えながら言葉を紡ぎだした。そう、この記憶は俺の記憶だ。間
違いない。でも、それじゃ、今まで俺の持っていた記憶は一体。

「うん、そうだね。じゃあ、その先は私が話すね」

 悠佳は混乱している俺を見ながらそう言うと、俺の手を取ってそっと自分の
手と重ねた。

「目の前に倒れこんで気絶しているやつに、その神魔はとどめを刺そうとした
の。でも、そんな時ふとあることが浮かんだ。それは、こいつを使役として使
えないかっていうこと。何でそんなことを考えたのかは判らないけど、きっと
役に立つからっていう安易な気持ちからだったんだと思う。そして、その神魔
は偽の記憶と、自分の言うことを聞き、常に大切に守るという暗示を植え付け
て、一緒に生活をはじめた。兄と妹として。もっとも、植え付けられた記憶の
せいで、兄は妹を普通の人間としか認識していないんだけどね」

 植え付けられた記憶と聞いて、俺は思い出した。そういえば、俺は人に別の
記憶を植え込む力なんて持ってなかったし、人を殺して魂を奪うなんて、必要
のない神魔だったということを。

「そうだったんだ。でも、じゃあ、どうして……そんな俺にあんな態度を……」

 俺は不思議だった。確かに、俺は悠佳に負けた。そして、今では意のままに
操られていたのも判る。だけど、そんな俺に対して、常に恋人のように接する
悠佳の態度が納得できなかったからだ。

 すると悠佳は、そっと身を寄せてきて答えた。

「初めの何日かは、妹は自分の思い通りにことが運んでいるのに満足していた
の。でも、日にちが過ぎていくに従って、少しずつその心境が変わりはじめた。
今まで、いつも一人でいた妹にとって、側にいてくれる人がいるっていうのは
あまりにも新鮮で、初めは利用するつもりでいたのに、いつしか本当の兄のよ
うに慕うようになっていったの。何しろ兄は神魔なのに本当にやさしくて、い
つも妹のことを大切に思ってくれたから。初めは、妹がかけた暗示のせいかと
思っていたの。でも、ある日ちょっとした戯れから、妹はその暗示を解いてみ
た。でも、兄の行動はまるで変わらず、それが本心からのやさしさだってこと
を知ったの。神魔のくせに。そう思っていたのは初めだけ。次第に、そのやさ
しさに飲み込まれていった。

 そして、一ヶ月も過ぎると、妹はすっかり兄に夢中だった。寝ても覚めても、
考えることは兄のことばかり。そして、その思いは次第にエスカレートしてい
ったの。

 初めは名前を呼ばれるだけで満足していた。そのうち、側にいたい、側にい
てほしいって思い、抱き締めたい、抱き締められたいと思い、最後には、愛し、
愛されたいと思うようになった。

 人の言葉に、「恋は人を狂わせる」っていうのがあるらしいけど、本当にそ
の通りだね。やがて妹は、全てを捧げたいとまで思うようになっていったの。
でもね、それと同時にある不安も妹は感じた。それは、いつか兄が自分の元を
去っていくんじゃないかってこと。暗示を解いた以上、兄は自分の意志で何処
へでも行くことが出来るわけだから。だから、ずっと側にいて欲しいという思
いから、妹はあることを考えたの。それが、あの日の出来事だったんだ。きっ
と、真面目な兄のことだから罪の意識を持って、自分の側を離れなくなるだろ
うって思ってね。それに、元々妹は人の命や生命力を活力とするから、そうい
う事にも慣れてたし。ただ、妹思いの生真面目な兄にそんなことが出来るわけ
無かったから、ちょっとだけ苦労したんだ。そして苦労の末、既成事実を作っ
た。兄の意識を操り、ただ自分の思うがままにしてね」

 悠佳はそこまで楽しそうに話し終えると一度息をつき、そして神妙な面もち
でそっと呟いた。

「でも、その後二つの誤算があった。そのうち一つはこれ」

 そう言って、悠佳は首筋の痣を指差した。

「俺がやったんだよな」

 俺がそう言うと、悠佳は苦笑して答える。

「うん。あまりにも嬉しくて、ちょっと油断したら私のコントロールを外れち
ゃって。本当に死ぬかもって思ったんだけど、ぎりぎりで引き離せたから。こ
れは、これでよかったの。でも、問題はもう一つの方。全てが終わった後、お
兄ちゃんが変わったこと。やさしいお兄ちゃんは、私を傷物にしたことに、い
つも思い悩むようになったから」

 俺は、一度うつむいた。そして、そのまま呟くように答える。

「俺は、お前のことを大切な妹だって思ってたからな。別に、暗示をかけられ
たからとか、そういうものじゃない。本当に、大切に思える妹だったから……」

「真面目だね。本当に、神魔だなんて思えないよ。でも、そういうところが私
を変えていったんだよ。でも、監視者が現れたとき、私凄く迷ったんだ。私の
思惑通り、監視者の目はお兄ちゃんに向けられてたのに、いざその時が来ると
凄く心配になって、いてもたってもいられなくなったの。お兄ちゃんを切り捨
てるつもりでいる私と、逆にお兄ちゃんを守ろうとする私が交錯したせいで、
自分でも何をしてるか判らなくなるし。気がつたら、種明かしまでしちゃって
たし……」

 悠佳はそう言った後、俺の首に腕を回して抱きついた。俺もそんな悠佳の体
をしっかりと受け止める。だけど、その瞬間「痛」という声を悠佳が上げたの
で思わず手を引いた。

「どうした?」

 悠佳は何も答えない。ただ、肩を抑えて身を震わせているだけだった。俺は
不審に思い、悠佳が着ているシャツを捲り上げる。すると、その背中には無数
の切り傷があった。

「悠佳……」

 俺が驚いた顔で見つめると、悠佳はシャツを下ろしながら答えた。

「逃げるときに、ちょっとね。心配しなくても大丈夫だよ。手当てはしたし。
それに、貧弱なお兄ちゃんと違って私は頑丈に出来てるから」

「貧弱って言うなよ」

「だって、貧弱じゃない。一発食らわせただけで、へろへろになっちゃってさ」

「あれは、いきなりやられたからだろ。普段は、あんなんじゃないんだよ」

「嘘つかない方がいいよ。監視者との戦いの記憶。私知ってるんだからね。随
分と見事な逃げっぷりだったじゃない」

「うるさいな! しょうがないだろ! お前だって監視者と戦ったから、あの
強さを少しは判っただろ!」

「私は、お兄ちゃんみたいにへこへこした逃げ方はしなかったもんねぇ〜だ!」

 そこまで言い終わると、俺達はお互いに睨みあい、すぐに笑顔を浮かべて笑
いあった。夜の静けさの中に、その笑い声が響く。いつもの調子で繰り広げら
れた言い合い。お互いが、本当のことを全て知った後でも、何も変わらないよ
うだった。だけど、しばらく笑いあった後、俺は呟いた。

「でも、この生活ももうすぐ終わる。出てこいよ。いるんだろ、美夕」

 俺がそう言うと、悠佳は驚きの表情を浮かべて振り返った。すると、リビン
グにある庭へと続く窓の端から人影がそっと姿を現した。

「気が付いてたんだ」

「ああ。目が覚めて、すぐにね」

 俺の言葉に、悠佳は驚きの表情を浮かべた。

「そんな、一体どうやって。ここには、結界が張って――」

「その結界、もう役に立ってないよ」

 悠佳の言葉を遮るように、美夕がそう言った。ただ、俺にはその張られてい
る結界そのものを知らなかった。

「おい、結界って何だ?」

 その時、張り詰めたその場の空気が一気に和んだ。美夕はクスクスと笑い出
し、悠佳は呆れたような顔で頭を抱えている。

「あなたって、本当に鈍いのね」

 美夕はそう言ってまたクスクスと笑い出した。その様子を後目に、悠佳は立
ち上がると、呆れながら話し始めた。

「あのね、この家の周りにずっと張り巡らせてたのよ、結界が。私達以外に寄
り付く者がいないように」

「張り巡らせてって、一体誰が?」

「私に決まってるでしょう! 今、美夕が隠れてたことに気づいて、何でそれ
が判んないの?」

 悠佳は、ちょっとイライラしたような口調でそう言ったので、俺はばつが悪
くなり、頭を掻いた。

「そうか。だから今まで、美夕はここにこれなかったのか」

 美夕は相変わらずクスクスと笑い続けている。悠佳はもう言葉もなかった。
しかし、その妙な雰囲気の中、俺は呟くように美夕に話し掛ける。

「俺達は、闇に帰されるんだよな」

 その言葉と共に美夕の顔から笑みが消え、悠佳も表情を曇らせた。そして、
三人の間に沈黙が訪れる。

「美夕。頼みがあるんだ」

 そう言って俺は両手をついて頭を下げた。

「悠佳だけでも、見逃してくれないか」

「お兄ちゃん!」

 悠佳が、俺の体に抱きついてきたのが判るが、俺は頭を下げたまま微動だに
しなかった。

「あなた達二人、変な神魔だね。片方は神魔と思えないような言動をとり、も
う片方はその相手を必死で守ろうとする。とても、神魔のすることだとは思え
ないよ。でも、どうでもいいけどね、そんなこと」

 そう言った後、美夕が手の平を差し出すとその上に炎が揺らめきながら姿を
現す。

「でも、それは出来ない相談だね。はぐれ神魔を闇へ帰す。それが、私の役目。
それに悠佳、あなたは人を殺してるでしょう? あの学校で……」

 その言葉を聞いた俺は、驚いて顔を上げたあと振り向く。すると、悠佳は俺
と目線を合わせようとせず、ただ唇をかみしめていた。

「確か、変死した生徒がいたっていう話を聞いたけど、まさかあれが……」

「そう。私も、初めはあなたの仕業だと思った。でも、おかしいなとも思った
んだ。昔会った時、あなたは人の命を奪わなくても生きていける神魔だってこ
とを知ってたからね」

 美夕がそう言い終わると、悠佳は俺の服をきゅっと握りしめた。

「でも、今はやってない。私、お兄ちゃんと出会ってからそんなことしなくな
った。だって、力はお兄ちゃんから貰ってたから」

「だからといって、あなた達を見逃すわけにはいかないな。判るでしょう?」

「判らない!」

 悠佳は突然、大きな声を出して立ち上がり、再び美夕に挑みかかろうとした。
だが、向かい合う俺達の間に美夕の下僕が姿を現し、牽制したので悠佳はどう
することも出来ないようだった。

「私、まだ負けた訳じゃないからね!」

 そう言うと悠佳の周囲に、さっき公園で俺を吹き飛ばした時のように空気の
流れがわき起こり、部屋の中の物を巻き込みだした。

「おい、悠佳やめろ!」

「お兄ちゃんは黙っててよ!」

 だけど、次の瞬間、悠佳の力は霧散していた。美夕が炎を放ち、それを咄嗟
に防いだからだった。

「結界の力は、随分強力みたいね。でも、もう限界かな?」

 炎を防いださいにはじき飛ばされ、しりもちをついていた悠佳に、美夕は関
心したような口振りでそう言った。俺はそんな悠佳の側に痛む体を引きずりな
がら身を寄せた。

「もういいよ、悠佳。お前だけでも逃げろ」

「……何言ってるのよ。そんなこと出来るわけ無いでしょう!」

 こんな状況になってまでも、悠佳の気勢は削がれていない。最後の最後まで、
諦めないようだった。それに比べて俺は、すでに戦う気力すらない。体は思う
ように動かないし、力も発揮できない。そんな自分が、情けなかった。

 一年前、美夕と戦った時の記憶。あの頃、俺はまだ怖い物知らずで、監視者
にさえも恐怖心を抱いてはいなかったし、勝てるとさえ考えていた。でも、手
も足も出ず、逃げた。逃げて逃げて、逃げまくった。

 その結果、戦うことにさえも恐怖を抱くようになって、こんなふうになって
しまった。目の前で、守らなければいけない相手を守ることも出来ず、ただ指
をこまねいて見ていることしか。

「もう一度……もう一度だけ、せめて最後に……」

 そう呟きながら、俺は自分の意識を奮い立たせ始めた。あの頃の、怖い物知
らずの自分をもう一度だけ呼び覚ますつもりで。

「お兄ちゃん?」

 悠佳が、そんな気配を察知したのか、不安そうな目を向けてくる。だけど、
俺は耳を貸さず、とにかく意識を集中させた。

「もう一度だけ、もう一度だけ監視者と戦う!」

 そう叫ぶと俺は立ち上がり、わき目もふらず美夕に挑みかかっていった。

☆    ☆    ☆

「お兄ちゃんの馬鹿」

 胸に抱きしめられながら、俺は悠佳の声を聞いていた。お互いの体が焼かれ、
崩れていくのが判るし、鼻を突く匂いも肉が焦げるような匂いだったけれど、
俺にはそんな匂いは殆ど感じられず、花のような甘い香りの方が強く感じられ
た。それが、悠佳の匂いだということに気がつくまで、それほど時間はかから
なかった。

 結局、戦いは戦いにもならなかった。元々、能力的にも監視者に勝てるはず
もなく、しかも傷を負って動きが鈍くなっていたためか、満足な攻撃すら出来
なかった。

 ごく僅かな、それこそ数秒という時間で俺は死を覚悟した。実際、ただ闇へ
と帰されるだけなのだから死ぬわけではない。でも、闇へ帰される感覚は、死
ぬ感覚とよく似てると思う。実際に、こうして炎に焼かれれば、それがよく判
った。

 だけど、俺が美夕の炎にやられる直前、悠佳が俺をかばうように目の前に飛
び出してきた。そして、俺を抱きしめた瞬間、背中に炎の直撃を受けた。

 悠佳が、俺を守ろうとしたのが判る。俺は、また悠佳に守られたんだと思っ
た。でも、今度ばかりは違っていた。美夕の炎は、俺をかばった悠佳の体を貫
き、同時に俺の体さえも貫いていた。一瞬遅れて、俺達の体の中から炎が吹き
上がる。そして、その炎はあっという間に体全体へと広がっていった。

「何も言わずに飛び出していっちゃ駄目だって言ったじゃない」

「……ごめん」

 そう言うと俺は、悠佳の胸の中で静かに目を閉じた。そして、消えゆく最後
の時まで、その温もりを感じ続けていた。

☆    ☆    ☆

 朝日が昇ろうとしていた。辺りは次第に明るい光が溢れ出し、鳥の囀る声も
聞こえてくる。家の廻りに張り巡らされていた結界は、すでに消え去り、家の
風貌も二人が住んでいたときと違って廃屋と化していた。おそらく、これがこ
の家の本当の姿なのだろう。所々に割れたガラスの破片が散らばり、外から差
し込む日の光に反射してキラキラと輝いていた。そんな家の中を、美夕は隅々
まで見回っていた。特に目につくものは無かったが、家具などは朽ち果てかけ
てはいるものの、まだ原型をとどめている物が多かった。

「不思議な神魔だったね、あの二人。この家で出会って、一緒に暮らして、人
間みたいに日々を過ごしていたなんて」

 美夕は独り言なのか、それとも背後にたたずんでいるラヴァに向けてそう言
ったのかは判らない。そんな美夕の姿をラヴァは何も答えず、ただ目で追い、
言葉を聞いていただけだった。

「人間みたいな暮らしか。何だか、懐かしいね」

 そう言うと美夕は、縁側へと続く割れたガラス戸から外に出る。ラヴァは、
いつの間にか家の中から姿を消していた。外に出た美夕は小さな庭を廻り、門
を通り抜けると、いつの間にか学校の制服に身を包んでいた。そして、以前は
あの二人が並んで歩いていた通学路を歩き始める。やがて大通りに出ると、美
夕は学校とは反対の方向へと歩き出し、遙か彼方へと消えていった。

 通学時間になり、通りには学生達の姿が溢れ出す。しかし、つい先日まで見
られた一人の長身の女性徒とそれを取り囲む複数の女性徒の姿、そして、その
様子を背後から見守る男子生徒の姿は、この日から見られることはなかった。

 

兄妹(完)


あとがき

終わったよぉ〜!
という安堵感の中、息抜き中のYOROIでございます。
さて、今回もまたこんな物語を書いてしましました。
しかし、今回のは長い! 長過ぎ!
書いてる自分も、こんなに長くなるとは思ってなかったので、
大変でした。

さて、物語全般なんですが、終わってみれば神魔同士の恋愛物で、
そこにちょっとしたニュアンスを入れてみただけでした。
最初は、ややアブノーマルから始まり、(やや、か?)
最終的にはどんでん返しがあっての終わり方。
頼りない兄と、たくましい妹の、
楽しい日常生活の終わりを迎える物語、
とも言えなくもないですけどね。

そんな中でも一応テーマをいくつか盛り込んではいました。
まず、二人の住む家について。
二人が出会い、共に生活をし、お互いの愛情を確かめ合い、
そして最期の場所となった空間。
家というのは不思議なもので、その存在が全てを包み込み、
その場にいる者達に平穏を与える場になることが多いです。
まあ、逆の場合もありますけどね。
もう少し、家についても書けたらなとか思ったんですけど、
どうも物語がそっちへ行ってくれなくて・・・
(だって、お兄ちゃんも悠佳も思った通りに動いてくれないし)

次のテーマが、つま先立ちのキス。
普通は、女の子がつま先立ちをするものですが、
この物語では男がすることに。
何しろ、兄が頼りなくて妹はたくましいという設定だったので、
自然とこうなってしまいました。
いえ、当初から目的にはしてたんですけど。

テーマはだいたいこんなところです。
他にもあるんですけど(兄妹の設定とか)、
それはあまり説明の必要もないので、いいかなと思ってたり。

ただ、最近ちょっと気になることが。
美夕の存在が、ちょっとおざなりになってるなぁ、と。
だって今回も結局、神魔を闇に返しにきただけだし。
いや、それが役目だけど、それだけってのもねぇ。
何だかだんだん、TV版みたいな感じになってきてる。
うーん、物語作るのって難しいのね。

さて、何だかあとがきもまとまりが無いので、
この辺りで強引に切りましょう。
次はどうなるか判りませんが、読みたいという方は、
あまり期待せずに待っていてください。
それでは、また。


戻る